リヒャミュで忠犬5題
1 全てお気に召すまま
「ミューラーさ〜ん、ミューラーさ〜ん♪」
調子はずれな声が、不機嫌な長身を追ってくる。
追いかけられている当人は、ただでさえ人を殺しそうな厳めしい顔をさらに歪ませて、憎々しげに舌打ちした。
「寄るな。死ね」
言葉と共に、足取り軽く近づいてきていた姿が、ぴたりと止まる。楽しげに弾んでいた足が慎重に一歩だけ距離を開け、それからぐるりと半周するようにして前へと回って きた。
目算なのだろうが、言葉の主との距離は、その間測ったかのように一定。
「ミューラーさんっ」
にこにこと、常に緊張感のない笑みを湛えた顔が、彼の視線を捉えていっそう、ふにゃりと崩れる。
「黙れ」
放っておけば、いつまででも彼の名前を調子の外れた声で呼び続ける相手に、不機嫌極まりない声で命令する。そのひと言でまさに開こうとしていた口を封じられた少年は 、それでも変わらない、溶けるような笑顔で、彼を見つめた。
彼以外の何も映そうとしない、土色の幼い瞳。
(見るな)
とそう言ってしまえば、恐らく黙って彼の視界から消えるのだろうが、なぜかそれだけが言えない。
もう何年も前、この瞳が彼だけを映すようになってから、ずっと。
―――言ってしまえば、きっと、その目は不要だと笑いながら抉るだろう。
もう一度舌打ちして、自分が相手の視界から出てしまうように、彼は歩き出した。一定の距離をおいて、声と似た調子外れの足音が、追ってくる。
来るな、と言えば、それすらも追い払ってしまえるはずだ。ただぽつんと立ち尽くす相手を、彼は置き去りにするだけでいい。
けれど。
―――そうすれば、もはや動く理由はないのだと、脚を折り、朽ち果てるまで愚直なまでに忠実に、そこに居続けるのだろう 。
「……ちっ」
結局、彼は何も言わなかった。
調子外れな足音と視線を従えて、ただ黙々と、目的地もなく足を運ぶ。
彼の言葉に、相手は必ず従うけれど。
「ふざけやがって」
最後には、必ず相手の望む通りになっているのだ。
作品名:リヒャミュで忠犬5題 作家名:物体もじ。