リヒャミュで忠犬5題
2 それは聞けない命令
「寄るな」
と言われたから、一歩だけ退がった。
―――代わりに、彼の視界に入ることにした。
「黙れ」
と言われたから、何も言わないことにした。
―――けれど、彼の視線を得ることは、禁じられていない。
けれど、それ以上を、彼は決して言わない。
「しばらくどこかに行っていろ」と言われることはあっても、「帰ってくるな」と言われたことはない。
たぶん無意識にだろう、何度も舌打ちを漏らしながら、それでも、じっと彼を見ていることを許してくれる。
歩き出した彼に、距離は保ったまま、ついていきながら、思う。
「見るな」「来るな」そんなことを、彼は絶対に言わないだろう。
―――何故なら彼は、知っている。
彼が言えば、従ってしまうだろうに、決して言わないのだろう、と思う。
―――その瞬間、役に立たなくなったこの目をこの身を、すぐさま壊してしまうことを。
彼の言葉には、必ず従ってしまうのに、それでも、それだけは、聞かなかったことにしてしまいたいと。
―――彼の姿も声も気配すらも得られないなら、この存在に意味などない。
そう思う自分を、彼は知り尽くしているのだから。
故にこそ、この忠誠は、彼に。
―――この身もこの意志も、すべて、そのために。
―――今あるものは、すべて、彼が与えたものなのだから。
だから、緩んだ笑顔で、今日も彼を、追う。
作品名:リヒャミュで忠犬5題 作家名:物体もじ。