ただ、そこにある奇跡
夏も終わりに近づいてきたある夜、音村は窓が鳴る音で目を覚ました。夜明けはまだすこしばかり遠い。風で窓が鳴ったのかと思ったが、コツンと、小石が窓にぶつかってきた。勝手知ったる自分の部屋、音村は電気を点けずに窓のそばに立ち、身を乗り出した。窓の下、家の前の道に夜の闇にも飲み込まれない派手な髪色が見えた。
「綱海?」
呼びかけたその声に、綱海が大きく手を振った。
家人を起こさないようにそっと家を抜け出した。外に出て綱海と向き合うと、挨拶もなしに彼は道を歩きだしたので、並んで綱海についていく。
道すがら、隣の綱海はなにも話さなかったので、音村もなにも話さなかった。こうして昔のように隣を並んで歩いていると、綱海がいなかった日常を夢の出来事のように錯覚しそうになった。海に出て、波打ち際ぎりぎりのところでようやく立ち止まる。波の音のなか、遠く沖に漁に出た船が小さく見えた。
「変わらねぇな、この島は」
海を真っ直ぐに見据えて、綱海はようやく口を開く。記憶と変わらない声があまりに懐かしく、音村は改めてこの数年の彼の不在を思い知った。
いつ帰ってきたのか、どこに行っていたのか、いままでなにをしていたのか。聞きたいことはたくさんあったが、そのどれもが喉から出てこなかった。いまはただ、隣のこの温もりを体中に染み渡らせて、確かなものにしたかった。
「島を出てさ、あっちこっち行ったんだよな。日本中だけじゃなく、世界中をあっちこっちな。色んなもんをたくさん見てきた」
先に見える海の境界線が白くうっすらと輝き、空が闇を失っていく。綱海はその光に目を細めた。
「景色とか街とか見て回ってさ、感動したり驚いたりしたんだけどよ、いっつもなんか物足りねぇんだよな。ぽっかり穴が空いてるみたいにさ。この穴はなんなんだろうなーって思って、どっかに答えがねぇかなって探しに行ってた」
そこで言葉は途切れて、波の音が二人を包んだ。待ってみるが続きはない。
「それで? 答えは見つかったのかい?」
綱海は一度音村を振り返り、また海に向かい直す。海水をすべて吸い込むかと思うように大きく息を吸って、吐いた。
「……答えっつーか、そういえば島にいた時はいっつもお前が隣にいたよなって気づいた。学校の帰り道とか、部活中とか、海に行く時とか、お前とずっと一緒にいたんだなって」
再び綱海が黙り込み、また波の音が世界を包んだ。綱海は決してこちらを見ようとはせず海を睨んでいる。その横顔は頭が痛いのと恥ずかしいのとが混ざったような複雑な表情だった。
「……それで?」
その言葉に、綱海はひどく気落ちして音村を振り返る。
「それでって……お前なぁ」
「昔とまったく変わっていないけど、君の言葉はビッザッロで脈絡がなさすぎるんだ。もっときちんと、コン・アモーレに言ってもらいたいな」
「きちんとって……」
綱海は叱られた子犬のように肩を落とし、彼が普段そうしないように頭をひどく使って言葉を探していた。
「なんて言うかよぉ、こう、お前が俺の隣にいるのってなんかこう、しっくりくるんだよな。落ち着くっていうか、それが自然みたいなさ。だから、お前には俺の隣にいてほしいっつーか……」
最後の方の言葉は彼にしてはひどく小さく、波にさらわれてしまいそうだった。けれども、音村の耳には確かに届いた。こそばゆいのか、こちらと目をあわせようとしない綱海の存在がとても可愛く、愛おしく感じた。
「君は、本当に馬鹿だな」
ようやくこちらを振り向いたその瞳は、先よりも更にひどく落ち込んでいた。ああ、本当に大馬鹿者だ。
「十年近く探し回って、ようやくそんなことに気づいたのかい?」
綱海がなにか反論しようと口を開いたが、構わず言葉を続けた。誰であろうと彼であろうと、邪魔をされるわけにはいかなかった。
「俺はそんなこと、ずっと前から気づいてたよ」
朝日が昇って、新しい朝が始まった。海が朝日を受けてきらきらと輝き、音村は柄にもなく、その光に祝福されているような気がした。
「おかえり、綱海」
そうしてまた、二人並んで帰り道を歩きだした。
作品名:ただ、そこにある奇跡 作家名:マチ子