ただ、そこにある奇跡
次の日、綱海は昨日の話がなかったようにいつも通りだった。登下校で出会しても昨日の話題はのぼらず、今朝の波乗りの調子や、学校での馬鹿話が中心にあった。音村は隣でその話と波の音に耳を傾ける。日常が穏やかな波のように連なっていく。
短い冬が終わって春が来て、春が去る前に綱海は宣言どおり島を出た。前触れはなかった。綱海がいなくなる前日にも会ったが、旅立ちをほのめかす言葉はなく、最後に交わした会話も幾度となく繰り返した「またな」という言葉だけだった。
家族にもまともに説明しなかったらしい綱海は家出同然の存在となり、しばらく島民を騒がせたが、いつの間にか誰も気にとめなくなった。
隣がぽつんと抜け落ちた日常を、音村は不思議と寂しいとは思わなかった。もとより不変を約束されたことではなかったので、いつかこうなることをどこか無意識に予期し、覚悟していたのかもしれない。ともあれ彼のいない春が過ぎ、長い夏を迎えた頃にはひとりだけの登下校が新しい日常として形成された。
それから何回もの夏と秋と冬と春を越えたが、綱海からの便りはなにひとつなく、音村は綱海のいない日常を穏やかな波に揺らされるように過ごした。
ふとした瞬間に綱海を思い出すことはあった。例えば一人だけの帰り道で赤い夕日に染められた海を見た時だとか、授業中にシャーペンの芯が無くなった時や、飲もうと思っていたコーヒーがすでに空になっていた時など。それは波の間をすり抜けるように襲ってきた。
(あの時、綱海になにを告げるべきだったのか)
疑問はシャボン玉のようにふわふわと空に舞いあがり、答えが見つかる前にはじけて消えてしまった。
作品名:ただ、そこにある奇跡 作家名:マチ子