本望にて
一、
白い雲を浮かべた青空の下に広がる草原を、馬が疾走している。
馬上にいるのは、少女だ。顔にはまだ幼さがあり、身体も小さい。
けれども、馬に振り落とされまいと必死でしがみついているのではない。
少女は鞍に腰かけず、アブミを踏みこみつつ身体の重心を変え、馬を猛然と駆けさせている。
質素な服は風を受けて広がり、その左右の耳のうしろあたりから三つ編みされた髪はたなびいている。
ふと。
少女は手綱を放した。
アブミに立ち、弓に矢をつがえる。
そのヤジリの向いているほう、少女の鋭い視線の先には、立派な二本の角を持つ茶色い毛の動物がいる。四本の細い足を動かし、逃げるように走っている。
獲物、だ。
少女は疾走する馬の上で姿勢を崩すことなく、狙いを定め、矢を放った。
ビュンと、矢は勢いよく飛んでいく。
矢は獲物を射た。
獲物が倒れる。
だから、少女はその獲物のほうに馬を走らせた。
倒れている獲物のそばまでいくと、馬からおりた。
少女は獲物を観察する。
そのとき、別の馬が近づいてきた。
馬上には人がいる。
少女よりは年上、しかし、青年と呼ぶには少しだけ早いような少年である。長い髪は首のうしろで無造作に束ねている。
そちらのほうを少女は見た。
少年は無表情のまま、馬上から少女を見おろして、言う。
「うまく仕留めたな。見事だ」
褒めているが、その声は淡々としていた。
しかし。
「うん」
少女は笑った。
野の花のように。
少年は眼を細めた。
それから、馬からおりて、少女の横に立つ。
少女の名は、トーヤ。
騎馬民族の部族のひとつで生まれ育った。
部族の他の者たちと同様、歩くまえから馬に乗った。もちろん、大人と一緒にであるが。
そして、部族の統領の娘である。
兄ふたり、姉ひとりがいる、末娘だ。
少年の名は、スレン。
トーヤと同じ部族にいる。
だが、騎馬民族の生まれではない。
生まれた場所は、騎馬民族自治区の近くにある振帝国。
それも、振帝国の名家の長男として生まれた。
父親は振帝国の高官、だった。そう、今となってはすべて過去のことである。もうこの世にいないのだから。
スレンの父は身分を剥奪されたうえで処刑された。
振帝国は腐敗している。
そのことについてスレンの父は問題視し、正そうとした。
しかし、腐敗にどっぷりと浸かっている他の高官から煙たがられ、身に覚えのない罪でとらえられた。
父の死後、累は親族にも及んだ。
スレンは母とともに振帝国から追放された。
追放されて、行くあてもなくさまよい歩いているうちに、盗賊の餌食となった。
盗賊たちは金目の物を奪っただけではなく、スレンの母を捕らえた。
さらに、逃げるスレンの背中を剣で切り裂いた。
地に倒れたスレンは母の悲鳴を聞きながら意識を失った。
そのあと、意識を取りもどしたのは、だれかに身体を揺さぶられたからだ。
スレンが眼を開けると、そこには幼い少女がいた。
トーヤである。
部族の統領である父にうしろから抱きかかえられるような格好で馬に乗り、散歩しているときに、スレンを見つけたのだ。
スレンは背中に深い傷を負って倒れていて、ピクリとも動かなかった。
死んでいる、生きていたとしてもまもなく死ぬだろう、そう判断して放置されたままであってもおかしくなかった。
だが、トーヤが生死を確認したいと父親に訴え、スレンが生きているのを知ると、助けたいと主張したのだった。
そんないきさつがあり、スレンは騎馬民族の部族のひとつの一員となった。
今では騎馬民族の生まれのように馬を扱うことができる。
母がどうなったのかは知らない。
美しいひとだった。
だから、殺さず、連れ去ったのだろう。
連れ去られたあとのことを、スレンは想像しないようにしている。
ただ祈るばかりだ。
自分が九死に一生を得たような奇跡が母にも起きているように、と。