春夏秋冬の放課後
オープニング
常に『何か』に見られていると、彼はそう言った。そしてその『何か』に心を覗かれているとも、言っていた。
その『何か』が、当時の私には具体的にはよく分からなかったけれども、彼の空気を振るわせるような存在感だけは、私にとって特別な意味を持っていた。
あのころ、まだ高校生だった私たち。そんな私たちのその現実は、しかし苦になることはなく、私たちだけの絆(つながり)となった。
「おつかれさまでした」
あのいつかの現実には、私たちだけの放課後があったのだ。
『出逢い』
『僕もうあんな大きな闇の中だってこわくない。きっとみんなの ほんとうのさいわいを さがしに行く。どこまでもどこまでも 僕たち一緒に進んで行こう』
彼を初めて見たとき、どこか他の男子とは違うなと感じた。自分自身の根本とした部分はしっかりしているけれども、心のどこか片隅に不安定さと不確実さを持っているような気がした。
しかしその一方で彼は温かい。朗読しているその澄んだ声も、まるで夕日に照らされた海を全身で感じるような心地よさがあった。だから彼を好きになるのに、さほど時間はかからなかった。
「新学年が始まったばかりですが、皆さんと一緒のクラスで最後の高校生活を送ることになりました……」
「今年の冬までパリにいました。よろしくお願いします」
彼は父子家庭で、父親から絵を描かされていた。何かのコンクールで優勝したとも言っていた。しかしその全ては彼自身の意志ではなかった。
別に絵を描くことが嫌いというわけではない。ただ、言われるままに描くのが嫌いだったのだ。
自分で道を作ったり、選択した道を敢然と進むことを彼は許されていなかった。そうしていくうちに心は、深い闇の中へと閉じこもっていった。
そして彼はいつのまにか『天使のスケッチ』と称されていた。しかしそれは、あくまで描かされた絵を評価されているだけで、誰もが彼を『さすがはあの人の息子だ』と言い、彼自身のタッチを褒めることはなかった。
だから彼は、孤独のなかで誰かからの祝福を待っているようで、現実感がなくて空洞のような心を持っていると、私は感じた。
しかしある日、私だけには見せてくれた。彼自身が描いた『水の都』は、山々の森の中にある湖に沈んだ都を物語る。それは天使の梯子で照らされていて水が透き通り、沈んでいる都が雅(みやび)やかさを纏ってキラキラと輝いていた。ライムやガーデニアの香りがするようだ。スパイシーでアクセントの強い野性的な中に爽(さわ)やかさと高貴さが感じられる。
それはまるで彼の深層世界のようでもあったのだ。
私は彼のタッチにも恋をした。
***
俺にとってこの一年間は、彼女との出逢いによって今までにない特別なものとなった。彼女に救われたと言ってもいい。
俺は、人づき合いをうっとうしく思っている。いつも誰も近寄らせなかった。しかし彼女は、俺にそれを許さなかった。
いったい俺の何が良いのか分からないが、それでも彼女は俺に何かしらの期待をしていたように思う。
彼女の目の線はほっそりとしている。瞳は黒曜石のように輝いている。俺とは違った、明るい未来を見据えたような、曇りなき眼(まなこ)であった。
髪はセミロングヘア。特に飾りっ気はないが、絹のように綺麗だ。
肌は透き通るような白色で、細い身体と輪郭が美しかった。
街行く人々の誰もが彼女に視線を止めるだろう。そして留めるはずだ。
それでも俺は、やはりうっとうしくて相手にしなかった。しかし彼女は離れなかったのだ。
「すごいきれいな桜だね」
美術室で、学校のためにコンクールに出す絵を描いていると、彼女が姿を見せた。忘れ物をしたらしい。
「春は桜を咲かせ、皆の一年を祝福するんだ」
「うん、分かる。始まりと出会いと、期待の季節だよね」
彼女のその言葉を最後に、美術室が再び静かな暇(いとま)と場所を取り戻す。
何気なく、彼女に視線をやると、俺自身謎に満ちて分からない心を、彼女は解き明かそうと俺を観察していた。
別に、それが嫌というわけではない。彼女はどうか知らないが、俺は基本的に無駄口をたたくのが嫌いなだけだ。特に筆を走らせているときは。
それを知ってか知らずか、彼女はまた喋りはじめた。
「今日も、最終下校時刻まで残って描くの? いくら家がこの近くでも、毎日それだと体調崩さない?」
……! 絵を描いている途中で、そんなことを言われたのは初めてだった。今までは皆、俺という筆を心配するばかりで、俺の心境や体調を無視してきた。
つまりこれまで、周りの連中は俺を商品としてしか見ていなかった。
父親にいたっては、世界への新たなアピールの材料みたいな、道具みたいなものとして扱っていた。
絵の出来が悪いと、ロープで縛られて猿ぐつわをされ、裏庭の倉庫に一晩中閉じ込められた。
その時の俺の周りにあるのは闇と、ひんやりとした空気だけで、音がなかった。何もない、何も見えない。無もなさそうだった。時間の感覚さえ、いつのまにか消えていた。
光も音も時間の感覚さえない世界に浮かんでいる俺は、裸で何も飾っていない。あまりに無防備な姿をさらけ出している。
この闇はいつまで続くのだろう。いくら待っても闇から解放させてはくれない。
そうやってだんだんと俺は、あいつらに見られる恐怖心から、そして自由に描きたいという想いから、誰もいないところ誰も見ていない場所で好きに絵を描くようになっていた。
しかし今度は『何か』に視られ、心が覗かれているような感じがし、鉛筆と絵筆を動かすことができなくなっていってしまった。
最初は絵の神様が俺のことを見守っているんだと嬉しく思った。しかし、その想いはだんだん恐怖に歪んでいった。
暗い場所で不気味に笑う黒い『何か』が、背後にいるように感じた。
それから数週間後、父は精神科医の助言で俺という筆を日本に預けることにした。
しかしどこの学校も条件として父の生きた筆を要求してきた。「無理して美術部に入らなくていい。ただ、後(のち)の伸びゆく芽のため、絵を描いてくれないか」と。
気が、重くなってきた。
俺は道具を片づけて下校の準備を始めた。
彼女は、俺のそんな行動に疑問符を浮かべていた。いつも遅くまで残っているのに、今日は早く帰宅しようとしているからだろう。
「なぁ、一緒に帰らない?」と、何となく誘ってみる。
彼女は一瞬びっくりしたようだが、すぐに嬉しそうに「うん」と答えた。
帰宅後、父に「何で今日はこんなに早いんだ!?」と怒鳴られた。以前、「何で今日はこんなに遅いんだ!?」と怒鳴られたばかりだった。
『一番長い青春』
俺は四階にある自分の教室の窓から陸上部が練習しているところを見下ろしていた。
青春特有のキラキラとした輝く掛け声がこの教室まで届く。
「なぁ。お前って、確か陸上部だよな?」
「うん、そうだよ。今ちょっと、足を悪くしてて……」
彼女は左足を両腕で抱きながらうつむいて言った。
常に『何か』に見られていると、彼はそう言った。そしてその『何か』に心を覗かれているとも、言っていた。
その『何か』が、当時の私には具体的にはよく分からなかったけれども、彼の空気を振るわせるような存在感だけは、私にとって特別な意味を持っていた。
あのころ、まだ高校生だった私たち。そんな私たちのその現実は、しかし苦になることはなく、私たちだけの絆(つながり)となった。
「おつかれさまでした」
あのいつかの現実には、私たちだけの放課後があったのだ。
『出逢い』
『僕もうあんな大きな闇の中だってこわくない。きっとみんなの ほんとうのさいわいを さがしに行く。どこまでもどこまでも 僕たち一緒に進んで行こう』
彼を初めて見たとき、どこか他の男子とは違うなと感じた。自分自身の根本とした部分はしっかりしているけれども、心のどこか片隅に不安定さと不確実さを持っているような気がした。
しかしその一方で彼は温かい。朗読しているその澄んだ声も、まるで夕日に照らされた海を全身で感じるような心地よさがあった。だから彼を好きになるのに、さほど時間はかからなかった。
「新学年が始まったばかりですが、皆さんと一緒のクラスで最後の高校生活を送ることになりました……」
「今年の冬までパリにいました。よろしくお願いします」
彼は父子家庭で、父親から絵を描かされていた。何かのコンクールで優勝したとも言っていた。しかしその全ては彼自身の意志ではなかった。
別に絵を描くことが嫌いというわけではない。ただ、言われるままに描くのが嫌いだったのだ。
自分で道を作ったり、選択した道を敢然と進むことを彼は許されていなかった。そうしていくうちに心は、深い闇の中へと閉じこもっていった。
そして彼はいつのまにか『天使のスケッチ』と称されていた。しかしそれは、あくまで描かされた絵を評価されているだけで、誰もが彼を『さすがはあの人の息子だ』と言い、彼自身のタッチを褒めることはなかった。
だから彼は、孤独のなかで誰かからの祝福を待っているようで、現実感がなくて空洞のような心を持っていると、私は感じた。
しかしある日、私だけには見せてくれた。彼自身が描いた『水の都』は、山々の森の中にある湖に沈んだ都を物語る。それは天使の梯子で照らされていて水が透き通り、沈んでいる都が雅(みやび)やかさを纏ってキラキラと輝いていた。ライムやガーデニアの香りがするようだ。スパイシーでアクセントの強い野性的な中に爽(さわ)やかさと高貴さが感じられる。
それはまるで彼の深層世界のようでもあったのだ。
私は彼のタッチにも恋をした。
***
俺にとってこの一年間は、彼女との出逢いによって今までにない特別なものとなった。彼女に救われたと言ってもいい。
俺は、人づき合いをうっとうしく思っている。いつも誰も近寄らせなかった。しかし彼女は、俺にそれを許さなかった。
いったい俺の何が良いのか分からないが、それでも彼女は俺に何かしらの期待をしていたように思う。
彼女の目の線はほっそりとしている。瞳は黒曜石のように輝いている。俺とは違った、明るい未来を見据えたような、曇りなき眼(まなこ)であった。
髪はセミロングヘア。特に飾りっ気はないが、絹のように綺麗だ。
肌は透き通るような白色で、細い身体と輪郭が美しかった。
街行く人々の誰もが彼女に視線を止めるだろう。そして留めるはずだ。
それでも俺は、やはりうっとうしくて相手にしなかった。しかし彼女は離れなかったのだ。
「すごいきれいな桜だね」
美術室で、学校のためにコンクールに出す絵を描いていると、彼女が姿を見せた。忘れ物をしたらしい。
「春は桜を咲かせ、皆の一年を祝福するんだ」
「うん、分かる。始まりと出会いと、期待の季節だよね」
彼女のその言葉を最後に、美術室が再び静かな暇(いとま)と場所を取り戻す。
何気なく、彼女に視線をやると、俺自身謎に満ちて分からない心を、彼女は解き明かそうと俺を観察していた。
別に、それが嫌というわけではない。彼女はどうか知らないが、俺は基本的に無駄口をたたくのが嫌いなだけだ。特に筆を走らせているときは。
それを知ってか知らずか、彼女はまた喋りはじめた。
「今日も、最終下校時刻まで残って描くの? いくら家がこの近くでも、毎日それだと体調崩さない?」
……! 絵を描いている途中で、そんなことを言われたのは初めてだった。今までは皆、俺という筆を心配するばかりで、俺の心境や体調を無視してきた。
つまりこれまで、周りの連中は俺を商品としてしか見ていなかった。
父親にいたっては、世界への新たなアピールの材料みたいな、道具みたいなものとして扱っていた。
絵の出来が悪いと、ロープで縛られて猿ぐつわをされ、裏庭の倉庫に一晩中閉じ込められた。
その時の俺の周りにあるのは闇と、ひんやりとした空気だけで、音がなかった。何もない、何も見えない。無もなさそうだった。時間の感覚さえ、いつのまにか消えていた。
光も音も時間の感覚さえない世界に浮かんでいる俺は、裸で何も飾っていない。あまりに無防備な姿をさらけ出している。
この闇はいつまで続くのだろう。いくら待っても闇から解放させてはくれない。
そうやってだんだんと俺は、あいつらに見られる恐怖心から、そして自由に描きたいという想いから、誰もいないところ誰も見ていない場所で好きに絵を描くようになっていた。
しかし今度は『何か』に視られ、心が覗かれているような感じがし、鉛筆と絵筆を動かすことができなくなっていってしまった。
最初は絵の神様が俺のことを見守っているんだと嬉しく思った。しかし、その想いはだんだん恐怖に歪んでいった。
暗い場所で不気味に笑う黒い『何か』が、背後にいるように感じた。
それから数週間後、父は精神科医の助言で俺という筆を日本に預けることにした。
しかしどこの学校も条件として父の生きた筆を要求してきた。「無理して美術部に入らなくていい。ただ、後(のち)の伸びゆく芽のため、絵を描いてくれないか」と。
気が、重くなってきた。
俺は道具を片づけて下校の準備を始めた。
彼女は、俺のそんな行動に疑問符を浮かべていた。いつも遅くまで残っているのに、今日は早く帰宅しようとしているからだろう。
「なぁ、一緒に帰らない?」と、何となく誘ってみる。
彼女は一瞬びっくりしたようだが、すぐに嬉しそうに「うん」と答えた。
帰宅後、父に「何で今日はこんなに早いんだ!?」と怒鳴られた。以前、「何で今日はこんなに遅いんだ!?」と怒鳴られたばかりだった。
『一番長い青春』
俺は四階にある自分の教室の窓から陸上部が練習しているところを見下ろしていた。
青春特有のキラキラとした輝く掛け声がこの教室まで届く。
「なぁ。お前って、確か陸上部だよな?」
「うん、そうだよ。今ちょっと、足を悪くしてて……」
彼女は左足を両腕で抱きながらうつむいて言った。