春夏秋冬の放課後
それでも俺は、何も気のきいた言葉をかけてやらずに「そうか」と、一言だけ投げかけた。俺が何を言おうが、彼女の現実がすぐに治るわけではないからだ。「高校生活最後の大会に出られなくて、残念だな」とだけは言ったが。
「でも、自分の身体を調整できているかどうかも実力のうちだから、後悔はないよ。反省はしているけど、後悔はない。後悔は反省と違って何も残さず何も生まないから」
彼女のその言葉は俺の耳には痛い。常に後悔し、悔いのない生活はできていないからだ。
「強いんだな」
「んー、そうでもないよ。私は今できることを必死でさがしているだけだから」
それは少なくとも、俺より強い意思だ。
「俺はお前と違って、チャンスに恵まれているのに描かない。描けないんじゃなくて、描かないんだよ。描く意欲が……誰かの言いなりで描きたくないから、描かない。俺は、弱い」
だから今の俺は、強迫的な父と学校に対して無力だった。
「君は危うくて、純粋すぎるよ。純粋すぎる。ねぇ、気分転換って言ったらなんだけど、私を描いてみない?」
俺と彼女の放課後が始まった。
***
私は今、彼のモデルとして美術室の窓際の席に座り、頬をついて外を眺めている。そしてその私を脳裏に刻みながら彼は、キャンバスに鉛筆を走らせていた。
「なぜお前は俺に関わろうとする」
突然のその言葉に私は不意をつかれ、彼の方を見た。
「動くな。絵が崩れる」
「ご、ごめん」
私から話しかけることはあっても、彼から話しかけることは今までになかった。それで驚き、姿勢を崩してしまった。
「別に深い意味で訊いたわけじゃない」
彼のその言葉を聞いて、心の半分くらいは安心した。嫌われているわけではなさそうだったから。でもその言葉を裏返すと、私たちの関係は少しも近づいていないことにもなる。だから心の半分はさみしい。
「優しい、からかな」
「俺が、優しい? 冷たいの間違いだろ?」
「確かに近寄りがたいけど、むやみに人の心配をしないところかな。
黙ってても何もしなくても、ときおり優しく視える。そしてどこか、悲しくも。そういうところが周りの男子との違いで、私が君を好きになった理由、かな。他には『特別』を普通に着こなしているところ」
「『特別』を普通に? どういう意味だ?」
「さて。どういう意味でしょう?」
私は立ち上がり、彼に近づいて瞳を閉じ、そっと唇を捧げた。
ぴったりとかたどられて重なり、柔らかな唇の感触と温もりが私たちを包んでくれた。
今彼は、何を思ってくれているだろうか。
『多重の紅(あか)』
読書の秋、スポーツの秋、食欲の秋と言う。けれど、彼にとっては芸術の秋だった。
彼は今、放課後の音楽室の窓際に座って天使の梯子を浴びている私を描いている。
どうやら最近創作意欲が湧いているのか、鉛筆や筆を持っていることが多い。特に私の絵が多い。
夏のあの一件が原因だろうと思いたい。そしてそれがきっかけで、彼は楽しく絵を描く心を得られたのかもしれない、とも。
とにかく、今、彼は周りの強迫など気になっていないのだ。
学校側からの勝手な方針で、強迫的に描いているという気持ちもないと言っていた。
「あの桜の絵、やったね。日本美術展覧会だっけ? に、入賞するなんて。やっぱり凄いなぁ」
「今までいくつも絵を描いてきたが、純粋に褒めてくれたのは君だけだ、今のところ。こんなにも気持ち良いものなんだな」
周りからの影響で彼は、成功の喜びを知らなかった。それはとても悲しいことだ。
しかし今は違う。彼の笑顔に、影はない。
夏に描いた絵も、自分から進んで学園祭に出したくらいだ。
「この絵が仕上がったら、少し遅いけれど紅葉でも見に行かないか?」
……驚いた。彼が自分から進んで人を誘うなんて、あの放課後以来だろうか?
ううん、違う。あのときは、どこか冷たい空気を纏っていた。学校を出たあとでも会話はほとんどなく、その空気に押し潰されそうだった。
そして夏から今日にかけて、彼はやはり誰とも付き合いがなかったのに、それなのに、相手が私だからなのか分からないけれど、珍しいことにかわりはなかった。
「うん。行きたい!」
私は彼との関係が充実してきて、とても楽しくて嬉しかった。
『凍てつく身体と溶ける心』
冬が来た。
冷たい季節だが、俺の鋼のように硬くなった心を、彼女は温かく包みこみ、ほぐしてくれた。
そして気がついてみるといつのまにか、ないはずの視線を感じることはなかった。心が覗かれているかもしれないという恐怖感も、なかった。
彼女のおかげで、俺のなかの何かが変わった。その何かは分からないが、とにかく、変われた。そして世界が新しく視えて、気分が良かった。
彼女は俺の心に光を照らしてくれた。今度は俺の番だ。彼女の気持ちに応える。
「きれい……」
彼女への婚約指輪として、八月の誕生石『ペリドット(石言葉:夫婦の幸福)』をプレゼントした。
できれば彼女の誕生日に贈りたかったのだが、誕生日を知ったのは当日だったし、こういうのは誕生日とは別の特別な日を作る意味でプレゼントしたかった。
「君と同じ人生を歩きたい」
「え!?」
「俺も君も、自立できてからになると思うけれど、そのときは」
「……ありがとう!」
彼女は幸せの涙を流した。俺はそれを優しく指で吹きとってやり、今度はこちらから唇を重ねた。
お互いの世界が、再び混じり合った。これまでの十何年間を交換できたように思えた瞬間だった。
その後、彼女は俺の父親に会い、対話をした。
エンディング
高校卒業後、私は東京の大学に、彼は芸大に進んだ。
「ええっ!? 君、婚約者がいるの?」
大学に入って初のゼミが終了してから、みんなでキャンパスを回ろうということになった。
「ね、ねぇ。どんな人? かっこいい? 優しい?」
その途中で、私が身につけている指輪によって男女問わず、すぐに話題の的となってしまった。
少し恥ずかしいけれど、でも、悪くはない気分だった。
彼に出会えて本当に良かった。嬉しかった。
彼は、彼だけは、『特別』が普通だった。『特別』を普通に着こなしていた。カッコつけているわけでもなかった。態度は冷たいけれど、心は優しい。そんな人だ。だからどうしようもないくらい好きになって、付き合うようになって、婚約した。
「うん。実は今日、食事に行く予定なんだ。そろそろ待ち合わせの場所に行かなくちゃ」
私のその言葉に、みんなは彼をひとめ見たいと言ってきた。
私は少しだけ自慢したいと思い、待ち合わせ場所の赤門まで向かった。するとやっぱり彼が、春を見に纏(まと)って先に待っていた。
黒いシャツに黒いジーンズと靴。そして少し丸めの四角い眼鏡をかけた彼がいた。全身黒の中で唯一、瞳が吸い込まれるようなブルー。
本当に、彼は優しい。それがあまりにも嬉しくて、ときどき泣いてしまいそうになる。
「そっちの人たちは友達?」
「うん。同じゼミ生」
私はそう言いながら、彼の腕に抱きつく。