水の器 鋼の翼番外2
1.
静けさを保っていた第一号モーメント研究所の通路に、突如としてけたたましく響く足音。
「誰だよ、うるさいなあ」
「何かあったのか?」
白衣を着た数人の研究員が、何だ何だと研究室から出て音のする方向を見やる。
通路の向こうから駆けてくるのは、一人の女。それは、科学者たちもよく見知っている人物の一人だった。いつもの落ち着きはどこへやら、必死の形相で走り続けている。腕の中に何かをしっかりと抱きしめて。そのただならぬ様子に、ギャラリーから幾分かの好奇の目が向けられる。
私服のゆったりとしたワンピースとカーディガンを着た彼女は、白衣だらけのこの研究所では異様に目立った。だが、彼女には自分の姿形に構っていられる余裕はない。苦しそうに息をつぎながらも、彼女の目が、ちらりと後ろに向けられる。ここで止まったらお終いなのだと、彼女自身が一番よく分かっていた。
女は全速力で通路を駆け抜け、近くの昇降口へと姿を消した。ややあって、今度はサングラスを掛けた黒服の男が五人、どたどたと足音をさせてやって来る。彼らはわき目も振らずにギャラリーを跳ね飛ばし、あっという間に通路の向こう側まで走り去って行った。
嵐は一瞬にして過ぎ去り、通路内には静寂が恐る恐る戻って来た。後には唖然とした様子の研究員たちが残される。彼らは、困惑に満ちた面持ちで互いに顔を見合わせたが。
「……とりあえず、戻りましょう」
「そうだな」
見なかったことにしよう。研究員たちの意見はすぐさま一致した。こちらはか弱い一般市民なのだ。厄介事にわざわざ首を突っ込んで、余計な火の粉をかぶるのは真っ平ごめんだ。それに、この騒動の原因については、心当たりがない訳でもない。
研究室に戻りながら、彼らはひそひそとささやき合った。
この研究に関しては、うちの会社がその筋の企業と手を組んでいるのだと、前々から噂されてはいたけれど。まさか本当だったとは。……と。
――地下に設けられたこの研究所は、第一号モーメント、通称「Uru」とそれを格納する大空洞を中心にして、幾つもの研究室や居住空間が通路を挟んで円状に繋がっている。そんな円状の階層が何層にも積み重ねられ、全体としては逆向きの塔のような構成をしている。
広大な研究所の構内を、女は懸命に逃げ続けた。その後を、あの黒服の男たちが追いかけ回す。足の速さは、黒服の男たちの方が遥かに勝っていた。その上、女側には不利な条件が一つ付加されている。彼女が男たちに捕まってしまうのも、時間の問題だと思われていた。
だが、女側にも有利な点があった。彼女は、この研究所のことなら何でも知っている。自分の庭同然に。何しろ、彼女は設計当時からこの研究所に関わり続けている者の一人なのだ。主要な研究室から、非常階段の一本に至るまで、彼女は研究所の構造を熟知している。
女は、いくつもの通路を駆け抜け、昇降口を掻い潜りながら、追手を振り切ろうとする。胸に抱いたものを床に落としてしまわないように、気を配りつつ。
ある一つの昇降口の前で、男たちは立ち止まった。蛍光灯の照らす昇降口に、女の姿はどこにも見えない。どうやら、ここで完全に見失ってしまったらしい。黒服の男の一人が、がつんと壁を殴って舌打ちをした。
「畜生め! あいつ、一体どこ行ったんだ!」
一方、研究所の最下層で。別の黒服の一団が、逃げた不動博士を躍起になって捜索していた。
スポンサーの意を受けた彼らは博士をMIDSから除名し、後任者に研究を引き継がせようとした。そこまではよかったのだ。だが、不意を突かれて博士にモーメントの制御カードを奪われた。あの制御カードさえあれば、モーメントはいつでも強制的に停止させられてしまう。
不動博士は逃走する際、制御カードを一枚落として行った。そのカードは今、後任者であるルドガー・ゴドウィンが所持している。残り三枚のカードは、未だに博士の手の中だ。制御カードを早急に取り戻さなければ、博士が再びモーメントの研究を妨害しに来る恐れがある。
研究所は意外と入り組んだ構造になっていて、不慣れな人間はすぐに迷ってしまう。なので、黒服たちは不動博士を探すのに随分と手こずっていた。先ほど、背後からレーザーガンで手傷を負わせたので、彼はそう遠くには逃げられないはずなのだが。
大人しく捕まればいいものを、どこまで手間をかけさせれば気が済むのか。男たちの苛立ちは募った。今回の任務には、これから先の彼らの生活が懸かっているのだ。
この研究所や、ここで行われているモーメントの研究開発には、彼らの雇い主がスポンサーとしてかなり多く出資している。そのモーメントの研究開発が、開発責任者によって中断された。つい最近の話だ。このままでは、利益を出すどころか、せっかく出した金を溝に捨てることになる。そう考えたのは、黒服の雇い主だけではなかった。そして、彼らの思惑は一致した。
モーメントの研究開発の障害である、開発責任者及びその賛同者の排除。それが黒服の男たちに与えられた任務だ。
通路内に、携帯端末の着信音が鳴り響いた。捜索の先頭にいた男の胸ポケットからだ。男は端末を開き、相手に応答を返した。
「ああ、俺だ。どうした。……見失っただと? このくそったれ、奴らは大事な人質なんだぞ!」
最初は冷静に受け答えしていた男だったが、報告を聞くと、彼は怒りに口調を荒げた。
「大体、お前らが変な時にかけてくるから、例の博士を取り逃がしたんだろうが! ……あ? そんなこと知るかよ。博士とカードを確保できなきゃ、次は俺たちの番なんだぞ!」
研究室のドアというドアを手当たり次第に開けながら、男は苛々と端末の向こう側に指示を出す。
「いいか。博士とその家族を全員捕獲し、一刻も早くカードを取り返せ。……奴らの生死は、この際問わない。研究を引き継ぐ人材は、一人か二人で十分だ」
男はぱたりとその場に立ち止まる。彼はぞっとするほどの酷薄な笑みを浮かべ、今の台詞に付け加えて言った。
「――見せしめだ。大事な妻子を死体にして突き付けてやりゃ、奴も反省するかもな」
真っ暗な通路の中、女はひたすら前を目指した。ひゅうひゅうと、彼女の口から掠れた呼吸音が漏れる。彼女の喉の中には、焼けつく痛みと共に血のような味が広がっていた。
非常灯がまばらに灯るだけのここの通路は、目をこらさないと現在位置を見失ってしまいそうだ。この階には人の気配はなく、闇の中に沈黙だけが漂っている。この研究所で行われていた主要な研究が先日中断されてから、こういった階層は研究所にいくつも存在するようになった。
長いこと走り続けた彼女の足はもつれてふらふらになってしまっている。走ると言うよりは、もはや歩いているのに等しい。それでも、彼女は足を動かし続けた。
どうやら、追手は彼女を完全に見失ったようで、追いかけて来る気配はない。身を隠すなら、今が好機だった。
女から見て左に、研究室のドアがあった。今は使われていないそこは、堅く施錠されている。そんなドアも、研究員のIDカードがあれば、すぐにでも開けて中に入ることができる。
静けさを保っていた第一号モーメント研究所の通路に、突如としてけたたましく響く足音。
「誰だよ、うるさいなあ」
「何かあったのか?」
白衣を着た数人の研究員が、何だ何だと研究室から出て音のする方向を見やる。
通路の向こうから駆けてくるのは、一人の女。それは、科学者たちもよく見知っている人物の一人だった。いつもの落ち着きはどこへやら、必死の形相で走り続けている。腕の中に何かをしっかりと抱きしめて。そのただならぬ様子に、ギャラリーから幾分かの好奇の目が向けられる。
私服のゆったりとしたワンピースとカーディガンを着た彼女は、白衣だらけのこの研究所では異様に目立った。だが、彼女には自分の姿形に構っていられる余裕はない。苦しそうに息をつぎながらも、彼女の目が、ちらりと後ろに向けられる。ここで止まったらお終いなのだと、彼女自身が一番よく分かっていた。
女は全速力で通路を駆け抜け、近くの昇降口へと姿を消した。ややあって、今度はサングラスを掛けた黒服の男が五人、どたどたと足音をさせてやって来る。彼らはわき目も振らずにギャラリーを跳ね飛ばし、あっという間に通路の向こう側まで走り去って行った。
嵐は一瞬にして過ぎ去り、通路内には静寂が恐る恐る戻って来た。後には唖然とした様子の研究員たちが残される。彼らは、困惑に満ちた面持ちで互いに顔を見合わせたが。
「……とりあえず、戻りましょう」
「そうだな」
見なかったことにしよう。研究員たちの意見はすぐさま一致した。こちらはか弱い一般市民なのだ。厄介事にわざわざ首を突っ込んで、余計な火の粉をかぶるのは真っ平ごめんだ。それに、この騒動の原因については、心当たりがない訳でもない。
研究室に戻りながら、彼らはひそひそとささやき合った。
この研究に関しては、うちの会社がその筋の企業と手を組んでいるのだと、前々から噂されてはいたけれど。まさか本当だったとは。……と。
――地下に設けられたこの研究所は、第一号モーメント、通称「Uru」とそれを格納する大空洞を中心にして、幾つもの研究室や居住空間が通路を挟んで円状に繋がっている。そんな円状の階層が何層にも積み重ねられ、全体としては逆向きの塔のような構成をしている。
広大な研究所の構内を、女は懸命に逃げ続けた。その後を、あの黒服の男たちが追いかけ回す。足の速さは、黒服の男たちの方が遥かに勝っていた。その上、女側には不利な条件が一つ付加されている。彼女が男たちに捕まってしまうのも、時間の問題だと思われていた。
だが、女側にも有利な点があった。彼女は、この研究所のことなら何でも知っている。自分の庭同然に。何しろ、彼女は設計当時からこの研究所に関わり続けている者の一人なのだ。主要な研究室から、非常階段の一本に至るまで、彼女は研究所の構造を熟知している。
女は、いくつもの通路を駆け抜け、昇降口を掻い潜りながら、追手を振り切ろうとする。胸に抱いたものを床に落としてしまわないように、気を配りつつ。
ある一つの昇降口の前で、男たちは立ち止まった。蛍光灯の照らす昇降口に、女の姿はどこにも見えない。どうやら、ここで完全に見失ってしまったらしい。黒服の男の一人が、がつんと壁を殴って舌打ちをした。
「畜生め! あいつ、一体どこ行ったんだ!」
一方、研究所の最下層で。別の黒服の一団が、逃げた不動博士を躍起になって捜索していた。
スポンサーの意を受けた彼らは博士をMIDSから除名し、後任者に研究を引き継がせようとした。そこまではよかったのだ。だが、不意を突かれて博士にモーメントの制御カードを奪われた。あの制御カードさえあれば、モーメントはいつでも強制的に停止させられてしまう。
不動博士は逃走する際、制御カードを一枚落として行った。そのカードは今、後任者であるルドガー・ゴドウィンが所持している。残り三枚のカードは、未だに博士の手の中だ。制御カードを早急に取り戻さなければ、博士が再びモーメントの研究を妨害しに来る恐れがある。
研究所は意外と入り組んだ構造になっていて、不慣れな人間はすぐに迷ってしまう。なので、黒服たちは不動博士を探すのに随分と手こずっていた。先ほど、背後からレーザーガンで手傷を負わせたので、彼はそう遠くには逃げられないはずなのだが。
大人しく捕まればいいものを、どこまで手間をかけさせれば気が済むのか。男たちの苛立ちは募った。今回の任務には、これから先の彼らの生活が懸かっているのだ。
この研究所や、ここで行われているモーメントの研究開発には、彼らの雇い主がスポンサーとしてかなり多く出資している。そのモーメントの研究開発が、開発責任者によって中断された。つい最近の話だ。このままでは、利益を出すどころか、せっかく出した金を溝に捨てることになる。そう考えたのは、黒服の雇い主だけではなかった。そして、彼らの思惑は一致した。
モーメントの研究開発の障害である、開発責任者及びその賛同者の排除。それが黒服の男たちに与えられた任務だ。
通路内に、携帯端末の着信音が鳴り響いた。捜索の先頭にいた男の胸ポケットからだ。男は端末を開き、相手に応答を返した。
「ああ、俺だ。どうした。……見失っただと? このくそったれ、奴らは大事な人質なんだぞ!」
最初は冷静に受け答えしていた男だったが、報告を聞くと、彼は怒りに口調を荒げた。
「大体、お前らが変な時にかけてくるから、例の博士を取り逃がしたんだろうが! ……あ? そんなこと知るかよ。博士とカードを確保できなきゃ、次は俺たちの番なんだぞ!」
研究室のドアというドアを手当たり次第に開けながら、男は苛々と端末の向こう側に指示を出す。
「いいか。博士とその家族を全員捕獲し、一刻も早くカードを取り返せ。……奴らの生死は、この際問わない。研究を引き継ぐ人材は、一人か二人で十分だ」
男はぱたりとその場に立ち止まる。彼はぞっとするほどの酷薄な笑みを浮かべ、今の台詞に付け加えて言った。
「――見せしめだ。大事な妻子を死体にして突き付けてやりゃ、奴も反省するかもな」
真っ暗な通路の中、女はひたすら前を目指した。ひゅうひゅうと、彼女の口から掠れた呼吸音が漏れる。彼女の喉の中には、焼けつく痛みと共に血のような味が広がっていた。
非常灯がまばらに灯るだけのここの通路は、目をこらさないと現在位置を見失ってしまいそうだ。この階には人の気配はなく、闇の中に沈黙だけが漂っている。この研究所で行われていた主要な研究が先日中断されてから、こういった階層は研究所にいくつも存在するようになった。
長いこと走り続けた彼女の足はもつれてふらふらになってしまっている。走ると言うよりは、もはや歩いているのに等しい。それでも、彼女は足を動かし続けた。
どうやら、追手は彼女を完全に見失ったようで、追いかけて来る気配はない。身を隠すなら、今が好機だった。
女から見て左に、研究室のドアがあった。今は使われていないそこは、堅く施錠されている。そんなドアも、研究員のIDカードがあれば、すぐにでも開けて中に入ることができる。
作品名:水の器 鋼の翼番外2 作家名:うるら