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水の器 鋼の翼番外2

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 2.

 ここは、小型モーメント機器の開発室。奥の方にある窓際からは、大空洞の照明の光が差し込んでいる。おかげで、灯りを灯さずとも、室内は通路よりは若干明るく照らされていた。
 作りつけの棚や、縦長の据え置きの作業台には、様々な形状をしたモーメント機器の試作品が並べられている。研究が活発に行われていたころは、ここは毎日のように賑わっていたものだった。そんな開発室も、研究が中断された今では、倉庫同然に打ち捨てられたままだ。
 彼女は、さてどうしようと考えた。窓際には、ベランダに続くガラス戸が見える。ベランダは他の部屋と地続きになっていて、内周を回ればすぐに非常階段に出られるはずだ。だが、彼女は逃走することに疲れていた。心臓は今も早鐘を打ち続け、乱れた呼吸は収まらない。
 彼女は、作業台の一つに近寄り、その下に身を潜めた。この作業台の脚は、彼女たちの姿をすっぽりと覆い隠してくれた。通路側からは、そこに誰がいるのかうかがい知ることはできない。 
 一時の休息場所に身を寄せ、彼女はようやく人心地がついた。乱れた呼吸を整えつつ、腕の赤ん坊を丁寧に抱き直し、背中を作業台の脚にもたれる。今なおぐずる赤ん坊の背を、とんとんと軽く叩いて落ち着かせようとする。
「よしよし。大丈夫、大丈夫よ。もう少しの辛抱だからね」
「あうー」
 一生懸命に赤ん坊をなだめすかせた結果、赤ん坊の機嫌はほんの少しよくなったようだった。よかった、と彼女はほっとする。もし、赤ん坊が大声で泣き叫べば、二人ともすぐに追手に見つかってしまう。もう少しの辛抱だ。この異常な状況が解消されて、無事に家に帰れるまでの。
「そう、もう少しの……」
 赤ん坊をあやしながら言った言葉だが、それは同時に彼女自身にも向けられていた。むしろ、彼女の方が誰かに「大丈夫だ」と言って欲しかった。一番その言葉をかけて欲しかった人間とは、未だに遠く引き離されたままで、安否すらも分からない。   
 どうしてこんな事態になったのか。募る不安の中、彼女は赤ん坊をぎゅっと抱き寄せ、これまでのことを思い返していた。

 モーメント研究所の上層に位置する、研究員のための居住空間。その内の一室に彼女の家族が暮らしていた。
 いつも通りの朝のはずだった。彼女は家族の洗濯物を洗濯機に放り込んで戻ってきたところだ。夫は、朝食もそこそこに、書斎から持ち出した資料やレポートを一心不乱に読んでいる。隣の部屋のベビーベッドには、彼らの息子がくうくうと寝息を立てている。
 そんな平穏な空間は、手元に置かれた夫の携帯端末の着信音によって、あっさりと破られた。夫は相手の名前を見やって一瞬躊躇したが、すぐに電話に出る。いくつかのやり取りを経て、電話は短時間で終わった。
「誰からでした?」
「ルドガーからの呼び出しだったよ。ナスカでの調査で、何か重要な発見があったらしい。詳細を報告したいので、すぐにUruに来て欲しいと言っていた」
「そうですか……」
 彼女の表情がさっと曇った。間近にいた彼女はよく知っている。夫とルドガーの関係が、モーメント研究の中止以来微妙にぎくしゃくしていることを。モーメントについて、あれだけ親しく語り合っていた二人が、日に日にすれ違っていく。それを傍から見るのはとても辛いものだ。
 彼女の夫は、彼女の不安を和らげるかのように冗談めかして言った。
「おいおい、そんな顔しなくったっていいじゃないか。心配しなくても、私はちゃんと戻って来るよ」
「本当ですか? 約束ですよ?」
 少しむくれてみせた彼女に、彼は穏やかに笑って答える。
「ああ、約束する」
 この人はずるい、と彼女は思う。そんないい笑顔を見せられたら、彼女は「いってらっしゃい」と言う他ない。共に同じ研究に携わった時からずっと、彼の笑顔には大抵彼女の方が負けてしまう。――無論、例外もあったりもする。
 彼女は、白衣をまとって家から出て行く夫を見送る。夫のいなくなった家は、それだけで途端にがらんとする。洗濯機の微かな音と、赤ん坊の寝息だけが聞こえるだけの広い空間。何となく寂しくなって、彼女は息子のベビーベッドに近寄った。
 生まれて間もない一人息子は、ベッドの上ですやすやと眠っている。研究所で持ち上がった問題を何一つ知る由もなく。彼女は、誰に向けるでもなく心の内をつぶやいた。
「私たち、これから一体どうなるのかしらね」 
 大人たちが右往左往しているのをよそに、子どもは日増しに大きくなる。おかげで、撮りためた彼の成長記録は山のようだ。先の見えないこのごろ、夫婦にとってはそれが何よりの心の慰めになっていた。
 ぷくぷくした息子の頬っぺたは、指でそっと触れてみると、柔らかく弾力を返してくる。息子の口から寝言ともつかない声が漏れ、彼女はくすりと笑みを零した。やはり、うちの子が一番かわいい。
 できればもう少しこのかわいさに浸っていたかったが、彼女にはまだやるべき家事が残っている。後ろ髪を引かれる思いで、彼女は居間に戻った。
 居間のテーブルには、モーメントや遊星粒子についてのレポートが一面に広げられている。研究を中断して以来、寝る間も惜しんで彼女の夫がまとめ続けていたものだ。その中に、一際目立つ下線が所々に引かれたレポートがあった。内容は、遊星粒子の特性についてだ。レポートに記された意味ありげな下線に、彼女の興味はいたく惹かれた。早速、手に取って読もうとしたが、間の悪いことに、来客を知らせるチャイムが鳴った。
「はあい」
《おはようございます。お届け物です》
「はいはい。少々お待ち下さいね」
 彼女には宅配の覚えがない。きっと夫が資料を取り寄せたのだろうと結論付けて、彼女は応対をするために玄関に向かった。
 この時、彼女は油断した。この研究所のセキュリティは万全だ。だから、ドアの向こうにいるその人物がどこの何者なのか、あまり警戒していなかった。
 ドアを開いた先にいたのは、サングラスをかけた黒服の男だった。にやにやとした笑いは、どことなく気味が悪い。
「えっと、どなた?」
「MIDSの不動さん、ですね?」
 黒袖の腕が彼女の方に、いきなりにゅっと伸ばされた。小さく悲鳴をあげて、彼女は後ろに飛び退き、急いでドアを閉めようとした。閉まろうとする電動ドアを、男の背後から伸ばされた複数の手が遮る。あっという間に、黒服の雪崩が家の中にまで押し寄せてきた。 
 彼女の足は自然に、ベビーベッドに向いていた。逃げる彼女、それを追う黒服の集団。居間のテーブルはなぎ倒され、資料は跳ね飛ばされ、レポート用紙がひらひらと宙を舞う。
 やっとのことで、彼女は息子のベビーベッドまでたどり着いた。震える手で我が子を抱き上げて、ばっと後ろに振り返った彼女だったが。
「……え?」
 彼女の額に当たる、冷たく硬い感触。彼女には、一瞬それが何だか分からなかった。形状自体は、以前にも見たことがある。そう、あれは、社員研修で一度だけ触れた。
 耳をつんざく赤ん坊の泣き声で、彼女は我に返った。そうして、ざっと血の気が引く。銃のような物体、いや、銃そのものが彼女の額に押し付けられている。
 すっかり顔を青ざめさせて、一切の抵抗を止めた彼女に、男は勝利を確信して話しかけた。
作品名:水の器 鋼の翼番外2 作家名:うるら