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水の器 鋼の翼番外2

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 3.

 彼女と彼女の息子を連行する最中、男の一人が得意げに語っていた。彼らは、モーメント事業に出資しているスポンサーの内の一社から派遣されたのだと。
 今までこの事業にどれくらい資金を提供したと思っている。お前たちは、うちの会社を潰す気か。彼らは、彼女と彼女の夫を散々になじった。彼女は、それは違うと言い返したかったが、できなかった。銃が彼女だけでなく、彼女の息子にも向けられていたからだ。
 その階のエレベーターホールに着いた時、黒服の男たちは意気揚々とどこかに電話しようとしていた。だが、相手の応答はなかなか返ってこず、コール音が繰り返しホールで鳴り続けるだけだった。
 やっと相手が電話に出たと思ったら、何やら様子がおかしい。あちら側は重大なトラブルの真っ最中だったらしく、電話をかけた男や仲間たちが一様に慌てている。騒ぎに気を取られ、ずっと向けられていた銃口が逸れたのを、彼女ははっきりと目にした。
 考える間もなく、彼女の足は付近の昇降口に向かって、力の限り走り出していた。男たちの怒鳴り声を背に、彼女は階段を一気に駆け下りていった。

――それにしても、彼らは何をそんなに騒いでいたのかしら。

 一心不乱に走りながらも、彼女はささやかな疑問を感じた。逃げる寸前、端末の向こうからは、怒号と聞き慣れない変な音を辛うじて聞き取れただけだった。

 あの黒服の男たちは、彼女と息子を一体どこに連れていくつもりだったのか。男たちは、それについては彼女に何一つ教えてくれなかった。
 もしもあの時、逃げ出せていなかったら。考えただけで背筋が寒くなる。
 時が経つに連れて、じわじわと押し寄せる不安と恐怖。それと共に別の考えが彼女の脳裏に浮かび上がる。洗濯物が、まだやりかけだった。後で掃除もしなければならない、男たちが随分と荒らしてくれたから。子どものミルクの時間には間に合うのか。こんなことになるなら、替えのおむつくらい持ってくればよかったか。
 この異常事態に、家の心配をするなんて。自分でも変だと彼女は思う。それでも、恐怖感が増すごとに、場違いな考えは彼女の頭を占めていく。
 彼女は、作業台の脚からこそっと顔を出して部屋の出入り口をうかがう。その階の通路には、不気味なほどの静けさが漂っていた。そろりと顔を引っ込めて、彼女は脚を床に投げ出した。
 開発室の入口は、無防備にも開けっ放しのままだ。IDカードが使えない今の彼女にとっては、入口のドアを閉めることさえ不可能だった。
 もし、IDカードが使えたならば、セキュリティがもっと厳重なエリアに逃げ込んで籠城する手もあった。そこまでしなくても、ドアの施錠や解錠くらいは簡単に行えたはずだった。
 電気系統の異常か。カードリーダーの故障か。いや、違う。彼女は悟った。彼女自身が、この研究所の研究員たる資格をなくしている。
「MIDSから除名されちゃったってことよね。私」
 研究所に放たれてからずっと、排除もされない黒服の男たち。このタイミングでのMIDSからの除名。間違いなく、この騒動には海馬コーポレーションが絡んでいる。もしかしたら、それ以上に大きな組織も関わっているかもしれない……例えば、国単位の大きさの。
 モーメントに期待をかけていたのは、彼女たち研究員も会社やスポンサー側も同じだった。ただ、向けていた希望の種類が決定的に違っていた。前者は永久機関自体の実現を願い、後者は永久機関がもたらす利益や恩恵を待ちわびていた。見えなかった両者のずれは、研究の中断によって表面化し、今日になってとうとう破たんしてしまった。
 彼らは、無理にでもモーメントの研究開発を推し進めようとしている。研究の障害となっている夫を、強硬手段で排除しようとしている。だが、夫にも彼女にも、生みの親の一人として守るべき本分があるのだ。利益よりも何よりも優先すべきは、シティ、ひいては世界中の人々の安全だ。夢のエネルギー機関を、殺戮兵器などという悪夢にする訳にはいかない。だからこそ、彼女の夫は身を切るような辛さに耐えて、夢だった自分の研究をあきらめようとしていたというのに。
 彼女は、離れ離れになった夫を思う。現在、彼女の置かれている立場がこれだ。ことの張本人と思われている彼の状況は、もっと酷いに違いない。彼女は、祈るようにつぶやいた。
「あなた……どうか、無事でいて」
 彼女のポケットの中で、何かがことんと硬い物音を立てた。あ、と小さく声をあげて、彼女はポケットの中身を探った。出てきたのは、携帯端末一機だ。逃げるのに夢中になっていたせいか、彼女は今の今までこれの存在をすっかり忘れていた。
 これがあれば、夫に連絡が付くかもしれない。一縷の望みをかけて、彼女は端末の通話ボタンを押した。だが、その時。
「――!」
 通路の向こう側から、こつりこつりと足音が聞こえてきた。携帯端末を手にしたまま、作業台の下で彼女は身構えた。
 他の研究員なのか。最近はここに人が来ることはめったになくなったけれど、どうか、そうであって欲しい。
 しかし、彼女の希望は脆くも打ち砕かれた。足音の主は、明らかに誰かを探しに来ている。付近の部屋を手当たり次第に引っ掻き回し、トイレのドアを乱暴に開け閉めしている。目的の物が見つかったら、何としてでもそこから引きずり出すくらいの勢いで。
 子どもをしっかり胸に抱いたまま、彼女は恐怖に慄く。かちかちと、歯の根が合わない。無情にも、足音がこちらの部屋へと刻一刻と近づいているのが聞こえる。母親の恐慌が敏感に伝わったのか、腕の中の子どもが今にも泣き出しそうになっている。
 どうすれば。どうすればいい。彼女は身を縮めてがたがたと震えていた。

作品名:水の器 鋼の翼番外2 作家名:うるら