水の器 鋼の翼番外2
4.
逃げた博士とその家族。合わせて三人。それを一所に集まってくまなく探すには、この研究所はあまりにも広大過ぎた。
仕方なく、黒服の男たちは、一人ずつ分散して目標を捜索することに決めた。カードを奪還しさえすれば、後は個人の裁量で処理しても構わないとの許可も出ている。三人の内二人は女と赤ん坊であり、残りの一人は深手を負わせたので、強い抵抗に遭う危険性も少ない。黒服の男たちにとっては、美味しい仕事だった。それに、何が起ころうとも、彼らの雇い主と海馬コーポレーションが一切をもみ消してくれる。
黒服の男が一人、まっ暗い階層にたどり着いた。ここに研究員は見当たらない。どうやら、あまり使われていない階層のようだ。この視界の悪さは、かくれんぼするには持って来いの場所だ。
倉庫では、山積みになっている段ボール箱をつかみ崩し。研究室では、整然と並んだテーブルや椅子を蹴倒し。トイレでは、個室のドアを片っ端から開けて、中に誰もいないかのぞき込む。
彼には心待ちにしていることがある。標的の「処分方法」だ。どうせなら、仕事は楽しんで行いたい。
見つけたのが男なら、ひと思いに楽にはさせず、じわじわとなぶり殺し。女だったら大当たりだ。人妻とはいえ立派に女で、しかも美人ときている。女が連れてる子どもとセットで、色々と楽しませてもらおうか。書き表すだけで胸が悪くなる残虐非道が、彼の脳内で華々しく繰り広げられていた。
目ぼしい収穫もないまま、残る部屋は一つになった。つかつかと彼がその部屋に近づいた時。
「何だこの声は?」
彼が耳にした声。声と言うよりは何かの動物の鳴き声に聞こえる。猫のような、甲高い鳴き声。そこまで考えて、彼にはぴんと来た。あれは、赤ん坊の泣き声だ。博士の妻は、この階層にいる。
赤ん坊の泣き声が聞こえるのは、今まさに男が入ろうとしていた部屋からだ。そこは、据え置き式の作業台が九台、列をなして並べられている。
男は、まず最初に、入口に一番近い作業台をひょいとのぞいてみた。そこには、誰もいない。男は顔を上げた。赤ん坊の声は、部屋の一番奥の作業台から発せられている。レーザーガンを構えてゆっくりと、男は作業台に近づいた。
作業台の陰から、小さな足がちょんとはみ出していた。男は反射的に銃口を向ける。作業台の横の床に、赤ん坊が一人で寝かされているのが分かった。母親らしき姿は、近くに見当たらない。
丸々としたその赤ん坊は、小さな手足をばたばたさせ、顔を真っ赤にして声を限りに泣き叫んでいる。耳を塞ぎたくなるくらいにうるさい。なるほど、このうるささに耐えかねて、母親は子どもを捨てていったのだ。男は確信した。こんなものを抱きかかえていたのでは、どうぞ見つけて下さいと言っているのと同じだ。
女がいないのが残念だが、これはこれでいい状況だ。男はくくくと低く笑った。子どもの無残な亡骸を、あの親共の眼前に転がしてやろう。果たして、彼らはどんな顔をして楽しませてくれるのか。
男は、赤ん坊の腹部に狙いを定めた。躊躇なく、レーザーガンの引き金が引かれる。
発砲されたレーザー光は、赤ん坊をするりとすり抜けて、床に突き刺さった。
「なっ」
一瞬、男は自分の目を疑った。続けて二度三度撃ったレーザーも、赤ん坊に命中せずに床を黒く焦がす。今度は男の腕が、赤ん坊に伸ばされた。その指先は、赤ん坊の身体を突き抜けて焦げた床にまで届く。
「――ソリッドビジョン!」
男は、血走った眼で傍の作業台をのぞき込んだ。そこには、決闘盤が一台、こちらに向けて床に置かれていた。決闘盤から伸びる光の束は、男の足元で像を結んで赤ん坊の幻を作り上げている。
黒服の男は、赤ん坊の母親にまんまとしてやられたのだ。
「あの女ぁ……!」
男は、怒りに全身をわなわなと震わせた。ぎりぎりぎりと、遠くまで響きそうな歯ぎしりが男の口から漏れる。
怒りのままに、男は決闘盤をレーザーガンで撃った。一回だけでは飽き足らず、プレート部分が粉々になるまで撃ち砕く。それでもまだ男の怒りは収まらない。レーザーガンは、荒れ狂う男の心の内そのままに、棚や作業台に向けられる。棚板が割れ、棚の中身が雪崩落ちる。作業台の上の試作品が、無残にもハチの巣にされていく。
ぜいぜいと荒い息で男が発砲を止めた時には、開発室は辺り一面、破壊された品々の残骸で散らかっていた。
「次に見つけたら、ただじゃおかねえ。俺がこの手でぶっ殺してやるよ……!」
男は悪態をついて大股で部屋から出て行く。何としてでも、標的を見つけ出して始末しなければならない。見つけたらその時は、思いつく限りの方法で痛めつけて抹殺してやるつもりだった。
男が出て行く足音に、彼女は注意深く耳を澄ませた。足音は、すぐ近くの昇降口に向かい、その後遠くへと去って行ったのが分かった。
彼女がいるのは、開発室近くにあった女子トイレ。あえて鍵をかけずに、彼女は息子を抱き、じっと息を潜めて隠れていた。開発室から騒々しい破壊音がした時などは、彼女は息子共々身を竦ませたものだった。
黒服の男が戻って来る気配は、今のところない。彼女はそっと個室のドアを開け、昇降口と左右を念入りに確認して開発室に戻った。
男の破壊活動により、開発室に往時の姿は見る影もない。残骸を踏んで音を立てないように注意して、彼女は決闘盤を設置した所に歩み寄る。決闘盤は、所々焼け焦げを残して粉砕されていた。決闘盤に繋いでいた携帯端末ごと。息子の幻影を映し出していた床は、二つ三つの銃痕を彼女の前に曝け出している。あの男は、息子を殺すつもりで躊躇いなく発砲したのだ。
それを黙って見つめていた彼女は、恐怖心が何故か静かに消えていくのをありありと感じた。次に彼女の視線は、作業台の上でがらくたになっている試作品のモーメントエンジンに向けられる。湧き起こる別の感情が、彼女の不安や恐怖をどんどん凌駕していく。
このままここにいたら、男がいつ戻って来るか分からない。彼女はヒビの入ったガラス戸を注意深く開けて、ベランダへと降りた。
元のようにガラス戸を閉め、彼女はベランダでしゃがみ歩きをした。別の階から見つからないように、縁に身を隠して進み、ついには非常階段にたどり着く。非常階段に腰をかけ、彼女は手の甲で額に浮かぶ冷汗を拭った。
「よかった。本当にどうなることかと思ったわ」
よかったねえ、と彼女は息子に話しかける。彼女の愛しい息子はレーザーの焼け焦げ一つなく、きゃっきゃと無邪気に笑っている。
――あの時。男が部屋に入って来る直前、彼女はここがどこなのか思い出した。「小型モーメント機器開発部」。そこには、モーメントエンジンを始めとする、小型のモーメント機器が保管されていた。その中に、試作品の決闘盤もあったのだ。
決闘盤には、他の周辺機器に接続できる機能が備えられている。過去には、デュエルリングに接続して決闘を行うこともあったそうだ。現在は決闘盤の多機能化とD-ホイールの登場により、デュエルリングは過去の遺物と化した。だが、機能自体は改良されて現在も残されている。例えば、AV機器に接続して、小型のホームシアターとして利用することも可能だ。
作品名:水の器 鋼の翼番外2 作家名:うるら