水の器 鋼の翼番外2
彼女は、決闘盤に持っていた携帯端末を接続し、前々から端末に保存していた息子の動画を投影した。追手が息子の幻影に気を取られている隙に、しゃがみ歩きで開発室をこっそり抜け出し、トイレに隠れていたという訳だ。
だが、これで連絡手段は断ち切られた。この先、夫と連絡を取り合うことは出来ない。全くの孤立無援だ。
ため息をついて、彼女は嘆く。決闘盤やソリッドビジョンを開発した海馬瀬人は、社長としても技術者としても優れた人物だった。彼がここにいてくれたら、あるいは。そこまで考えて、彼女は首を横に振る。
開発室は、黒服の男によって破壊の限りを尽くされた。彼女たちMIDS研究員の技術と努力の結晶であるモーメント機器は、見るも無残な姿を晒している。せっかく皆で心を込めて造ったのに。彼女は怒りと悲しみを覚える。新たに目覚めた感情は、恐れ戸惑っていた彼女の心をある方向に定めてくれた。
彼女は理解した。あの男たちにモーメントを渡してはならないと。特に、己の欲望のままに人が造り上げた物を打ち壊し、人命を蔑ろにして当然とする人たちなんかには。
彼女は決意する。絶対に、モーメントの起動と暴走を阻止しなければならないと。それが、モーメント開発者としての使命だ。「子ども」のおいたを取り返しのつかなくなる前に止めるのは、親にとっての重大な役目だ。
黒服の男側は、モーメントの停止を阻止するために動いている。人の命を軽んじてまで、己の希望を押し通そうとしている。最悪の場合、彼女は命を落とす覚悟をしなければならなくなるだろう。
もし、男たちに危害を加えられたら。もし、モーメントが暴走したら。……怖くないと言えば嘘になる。彼女だって死ぬのは嫌だし、やりたいことはまだまだたくさんある。それでも、果たさなければならない使命はここにある。
唇を噛みしめる彼女。そんな彼女の襟を、ちょいちょいと引っ張る者がいる。見下ろしてみると、彼女の息子が小さな手で彼女の襟をきゅっとつかんでいた。彼の顔は、どことなく彼女を心配しているようだった。
息子の頭を優しく撫でて、彼女はこれからのことを考える。
モーメントを止める。それはもう決定事項だ。その前に、息子をどこか安全な場所に避難させたい。シェルターか、もしくは非常用の脱出カプセルか。どちらも、この階層よりも下に設置されている。
心残りはと言えば、もう息子をすぐ傍で見守ってやれないかもしれないということだ。叶うなら、この子が育っていくさまをこの目で見ていたかった。モーメントが創る新たな世界で、どんな人間に成長するのか見届けたかった。最後まで。
彼女は、柔らかな笑みを浮かべて息子に語りかけた。
「大丈夫。あなたは私が、絶対に守ってみせるわ。ねえ、――遊星」
遊星を腕に抱え、不動夫人は非常階段を一歩ずつ降りていく。長いこと動き続けた彼女の脚はふらついていて、どこか弱々しい。
しかし、彼女の心は不思議なほどに凪いでいた。
(END)
2011/5/21
作品名:水の器 鋼の翼番外2 作家名:うるら