やさしさライセンス
右手には強さを。
左手にはやさしさを。
そう教えてくれたのはいつの事だろう。
柔らかな陽の光を背に、その人はそう言って微笑んでいた。
その時は確かに、自分も微笑みを返したはずだった。
返せて、いたはずだった。
それは、今なお鮮明に残る記憶のひとつ。
ただ、悲鳴を上げて飛び起きる。
ふたつあるベッドに、主は一人だけ。それを確認すると、無意識に詰めていた呼吸を再開する。ゆるゆると息を吐いて、額に浮かんだ嫌な汗を軽く拭った。
ひとりで良かった。
そう思いながらベッドを降りると、冷たい床の感触が心地良かった。
夢に見るほどの、後悔と恐怖心。護れなかったものが多すぎて、言葉に出来ない焦燥と自己嫌悪ばかりが積もり、澱みのように溜まっていく。
自分ばかりが、身近な人の心配をしていていい状況ではない事が分かっていたから、今まで閉じ込めて来た。夢の終りに、唐突に呼び起こされた記憶には、いったいなんの意味があるのか。
小さく切り取られたような窓から、暗い空間を覗き込む。
「…父さん、母さん…」
見えるはずのない、その場所を思い浮かべながらゆっくりと呟いた。
出会った人との別れは必ず訪れる。
そんな事は良くわかっているつもりだった。避難民が輸送艇に乗り込んで行くのを横目に、そこにあの少年がいる事を否定したくて仕方がないらしい。
例え、その戦闘能力や頭脳だけに頼ったとしても、ナタルの言う通りに彼をここに引きとめて置いてくれたら、と考えたのも事実で、けれどもそれは自分が反対してしまった。そうでなくとも艦長や、あの人道を重んじる准将がそれに賛成したとは考え難い。あくまでも少年の意思に任せる決定をしたのだから、降りると言われればそれはそれで引きとめる事は出来ない。何よりも戦闘を嫌っているはずの少年が、自分の言葉でここに残ってくれるとは思えなかった。
最初から、期限は見えていたはずなのに。
「…ここにいてくれ、とはなぁ…」
言えるはずもなく。
彼がここにいないと言うのなら、彼のいる場所を護ればいいだけの話だから。ただ、何事もなく地球に降りてくれる事を願って。
避難民の列から目を逸らすと、隣のデッキであの機体に別れを告げているであろう少年を探して床を蹴った。
「…またしょうもない事で悩んでそうだもんな。」
微かに笑みが零れた。
見上げた機体の大きさに、今更ながら驚嘆する。短い間とは言え、自分は酷く恐ろしいものを手足のように操って来ていたものだ。思い起こして見ても、ゆっくりとこの機体を見たことがない。いつでも狭いコックピットの中で、出撃の時にはそんな余裕はなくて。プログラム以外の整備には専門外の自分は、手を出した事もない。いったい、どれくらいの労力を必要とするのか。
閉じたままのコックピットを見つめて、溜息をついた。
たった今、やる気のない人間は要らない、と言われたばかりだと言うのに、何かに迷っている。それはずっと、心の奥底で恐怖と同時にそれを抑えるかのように生まれた感情。これに乗っている時の高揚感も確かに存在していた。けれど、それとは別にここから離れたくない何かが自分にはある。それが解らないから、いつまでも曖昧なまま、ここで迷っている。
「…どうするか決めたのか?」
不意にかけられた言葉。いつの間にかそうやって不意打ちのようにかけられる言葉にも慣れていた。その声の主は、決まって自分が悩んでいる時に背中を押してくれる存在だったから。
「…一応は。」
曖昧に微笑んで振りかえると、その人は少し不機嫌そうな顔をしていた。
「…制服を着てないって事は…降りるって事だよな。」
微かに畳み皺の残る上着は、地球軍のそれではなく。初めてこの艦に降りたときの、その姿のままで。
「すみません。」
そう言って、目を伏せた。降りると言われただけで、酷く動揺していた。
自分で決めた事のはずなのに。
「…引きとめてくれるのかと思いましたよ。」
いつでも、強引に前に向かって押し出してくれた人に、今更引きとめて欲しいと思うなんて。
それでも、そう言葉に出してしまって少し後悔した。明らかに、目の前に立つ人は怒っているようだったから。
「お前が…決めた事だろう、自分で。」
突き離すように与えられた言葉。怒気を孕んだ低い声に、肩が震えた。それを悟られないようにゆっくりと呼吸を整えて顔を上げた。
「…そう、ですよね。僕は…この艦を降りますよ。」
唇の端に、笑みを浮かべる。あの時の記憶のように、上手く笑えているだろうか。
「フラガ大尉も、お元気で。」
ああ、と短い返事が帰って来る。
「…もう、行けよ。向こうに移るシャトル、なくなるぞ。」
そう促されて、再び巨大な機体を見上げる。
「…有り難う。」
それは、確かに感謝の言葉だった。その先に続く言葉は、きっと必要ないと、この時は思っていたから繋がらなかった。
キャットウォークの手すりに寄りかかっていたその人は、すれ違いざま唐突に呟いた。
「…俺が、護ってやるから。」
どこにいても、俺がその場所を護るから。
そう言われて振り返った先には、いつも背中を押してくれた人がいた。
自分でも意識しないうちに、頭を下げていた。
「俺達、残る事にしたから。」
その言葉は衝撃的だった。
「…え?」
呆然と聞き返した視線の先には、制服に身を包んだ友人達。
父親を失って泣き崩れていたはずの少女が、自ら志願したのだと聞かされた。
「お前はさ、降りるって決めたんだろ。…今までありがとな。」
そう言って友人は笑った。
「…サイ…みんなも…本当、に…?」
ゆっくりと頷く友人の顔は、微かに諦めたような表情が浮かんでいた。
口を開きかけたその時、警報が鳴り響いた。俄かに慌ただしくなったデッキの中で、彼らは押しつけるように書類を渡すと早く行け、と促した。
後ろからしきりに搭乗を促す声が響いている。けれど、呆然と彼らの去った通路を見つめているしかなかった。
「…ホント、勝手だよな…」
自分も、彼らも。
苦笑混じりに呟いた。
手渡された書類には、除隊を許可する旨の文章が綴られていた。いったいいつの間に軍に入ったんだろうとぼんやり考えると、いっそ可笑しいくらいで。この艦を降りる、それが現実に目に見える形になってからようやく気付いた。
あの時、あの機体のグリップを握った日から。
「…とっくに、抜けられなくなってたんだな。」
第一、自分がいたからと言ってどうにかなる状況ではなかった。それでも、自分があれを動かすことで何とかなるのかもしれない。少なくとも、誰か一人を護る事くらいは。
ふと、脳裏に浮かんだ人がいた。けれども、それはすぐさま否定する。
あの人が、護られて大人しくしているような人だとは。
「…思えない…」
気付けば、そこに立ち止まっているのは自分一人だった。苛立ったように問いかけを繰り返す兵士を振りかえると、横に首を振った。今艦を降りても、これを見る度に後悔する事は目に見えていた。
「…行って下さい。」
面食らったような表情を横目に、ゆっくりとシャトルに背を向ける。
左手に持っていたのは、空虚な現実。
左手にはやさしさを。
そう教えてくれたのはいつの事だろう。
柔らかな陽の光を背に、その人はそう言って微笑んでいた。
その時は確かに、自分も微笑みを返したはずだった。
返せて、いたはずだった。
それは、今なお鮮明に残る記憶のひとつ。
ただ、悲鳴を上げて飛び起きる。
ふたつあるベッドに、主は一人だけ。それを確認すると、無意識に詰めていた呼吸を再開する。ゆるゆると息を吐いて、額に浮かんだ嫌な汗を軽く拭った。
ひとりで良かった。
そう思いながらベッドを降りると、冷たい床の感触が心地良かった。
夢に見るほどの、後悔と恐怖心。護れなかったものが多すぎて、言葉に出来ない焦燥と自己嫌悪ばかりが積もり、澱みのように溜まっていく。
自分ばかりが、身近な人の心配をしていていい状況ではない事が分かっていたから、今まで閉じ込めて来た。夢の終りに、唐突に呼び起こされた記憶には、いったいなんの意味があるのか。
小さく切り取られたような窓から、暗い空間を覗き込む。
「…父さん、母さん…」
見えるはずのない、その場所を思い浮かべながらゆっくりと呟いた。
出会った人との別れは必ず訪れる。
そんな事は良くわかっているつもりだった。避難民が輸送艇に乗り込んで行くのを横目に、そこにあの少年がいる事を否定したくて仕方がないらしい。
例え、その戦闘能力や頭脳だけに頼ったとしても、ナタルの言う通りに彼をここに引きとめて置いてくれたら、と考えたのも事実で、けれどもそれは自分が反対してしまった。そうでなくとも艦長や、あの人道を重んじる准将がそれに賛成したとは考え難い。あくまでも少年の意思に任せる決定をしたのだから、降りると言われればそれはそれで引きとめる事は出来ない。何よりも戦闘を嫌っているはずの少年が、自分の言葉でここに残ってくれるとは思えなかった。
最初から、期限は見えていたはずなのに。
「…ここにいてくれ、とはなぁ…」
言えるはずもなく。
彼がここにいないと言うのなら、彼のいる場所を護ればいいだけの話だから。ただ、何事もなく地球に降りてくれる事を願って。
避難民の列から目を逸らすと、隣のデッキであの機体に別れを告げているであろう少年を探して床を蹴った。
「…またしょうもない事で悩んでそうだもんな。」
微かに笑みが零れた。
見上げた機体の大きさに、今更ながら驚嘆する。短い間とは言え、自分は酷く恐ろしいものを手足のように操って来ていたものだ。思い起こして見ても、ゆっくりとこの機体を見たことがない。いつでも狭いコックピットの中で、出撃の時にはそんな余裕はなくて。プログラム以外の整備には専門外の自分は、手を出した事もない。いったい、どれくらいの労力を必要とするのか。
閉じたままのコックピットを見つめて、溜息をついた。
たった今、やる気のない人間は要らない、と言われたばかりだと言うのに、何かに迷っている。それはずっと、心の奥底で恐怖と同時にそれを抑えるかのように生まれた感情。これに乗っている時の高揚感も確かに存在していた。けれど、それとは別にここから離れたくない何かが自分にはある。それが解らないから、いつまでも曖昧なまま、ここで迷っている。
「…どうするか決めたのか?」
不意にかけられた言葉。いつの間にかそうやって不意打ちのようにかけられる言葉にも慣れていた。その声の主は、決まって自分が悩んでいる時に背中を押してくれる存在だったから。
「…一応は。」
曖昧に微笑んで振りかえると、その人は少し不機嫌そうな顔をしていた。
「…制服を着てないって事は…降りるって事だよな。」
微かに畳み皺の残る上着は、地球軍のそれではなく。初めてこの艦に降りたときの、その姿のままで。
「すみません。」
そう言って、目を伏せた。降りると言われただけで、酷く動揺していた。
自分で決めた事のはずなのに。
「…引きとめてくれるのかと思いましたよ。」
いつでも、強引に前に向かって押し出してくれた人に、今更引きとめて欲しいと思うなんて。
それでも、そう言葉に出してしまって少し後悔した。明らかに、目の前に立つ人は怒っているようだったから。
「お前が…決めた事だろう、自分で。」
突き離すように与えられた言葉。怒気を孕んだ低い声に、肩が震えた。それを悟られないようにゆっくりと呼吸を整えて顔を上げた。
「…そう、ですよね。僕は…この艦を降りますよ。」
唇の端に、笑みを浮かべる。あの時の記憶のように、上手く笑えているだろうか。
「フラガ大尉も、お元気で。」
ああ、と短い返事が帰って来る。
「…もう、行けよ。向こうに移るシャトル、なくなるぞ。」
そう促されて、再び巨大な機体を見上げる。
「…有り難う。」
それは、確かに感謝の言葉だった。その先に続く言葉は、きっと必要ないと、この時は思っていたから繋がらなかった。
キャットウォークの手すりに寄りかかっていたその人は、すれ違いざま唐突に呟いた。
「…俺が、護ってやるから。」
どこにいても、俺がその場所を護るから。
そう言われて振り返った先には、いつも背中を押してくれた人がいた。
自分でも意識しないうちに、頭を下げていた。
「俺達、残る事にしたから。」
その言葉は衝撃的だった。
「…え?」
呆然と聞き返した視線の先には、制服に身を包んだ友人達。
父親を失って泣き崩れていたはずの少女が、自ら志願したのだと聞かされた。
「お前はさ、降りるって決めたんだろ。…今までありがとな。」
そう言って友人は笑った。
「…サイ…みんなも…本当、に…?」
ゆっくりと頷く友人の顔は、微かに諦めたような表情が浮かんでいた。
口を開きかけたその時、警報が鳴り響いた。俄かに慌ただしくなったデッキの中で、彼らは押しつけるように書類を渡すと早く行け、と促した。
後ろからしきりに搭乗を促す声が響いている。けれど、呆然と彼らの去った通路を見つめているしかなかった。
「…ホント、勝手だよな…」
自分も、彼らも。
苦笑混じりに呟いた。
手渡された書類には、除隊を許可する旨の文章が綴られていた。いったいいつの間に軍に入ったんだろうとぼんやり考えると、いっそ可笑しいくらいで。この艦を降りる、それが現実に目に見える形になってからようやく気付いた。
あの時、あの機体のグリップを握った日から。
「…とっくに、抜けられなくなってたんだな。」
第一、自分がいたからと言ってどうにかなる状況ではなかった。それでも、自分があれを動かすことで何とかなるのかもしれない。少なくとも、誰か一人を護る事くらいは。
ふと、脳裏に浮かんだ人がいた。けれども、それはすぐさま否定する。
あの人が、護られて大人しくしているような人だとは。
「…思えない…」
気付けば、そこに立ち止まっているのは自分一人だった。苛立ったように問いかけを繰り返す兵士を振りかえると、横に首を振った。今艦を降りても、これを見る度に後悔する事は目に見えていた。
「…行って下さい。」
面食らったような表情を横目に、ゆっくりとシャトルに背を向ける。
左手に持っていたのは、空虚な現実。