パプリカ
普段ならしつこいくらいに邪魔をする図体ばかりでかいこの大人は、今日に限ってキッチンカウンターに荷物を降ろしてそそくさとリビングに逃げて行く。それに首を傾げながらも、キラはいつものように買ってきたものを寄り分け、冷蔵庫に納めようとした。さりげなく、見咎められない内に、と思って野菜室の引き戸を開けて、それを見つける。
「…え…?」
見間違いかと思った。けれど、がらんとした庫内に転がっている赤い物体は、紛れもなく。
自分の手に持っていたものと、形こそ微妙に違うけれど、同じ野菜。
「…予想外だ…」
まさか、自分で買って来るなんて。
普段から冷蔵庫の開け閉めは最低限、としつこいくらいに言っている筈の自分が、開け放たれたままの野菜室を見詰めてたっぷり取った沈黙のあと、それだけ呟くのが精一杯だった。
本当に、とても下らない事でドキドキしている気がする。
軽く溜息を吐いて、ソファに転がったまま読む気の起きない雑誌を捲る。相手の反応がとても予想できないから、何かしていないと落ち付かなくて写真だけを流し見ていると、開けた気配がしたきり暫く沈黙していたキッチンから冷蔵庫の閉まる音がした。雑誌から顔を上げず視線だけでそちらを覗うと、キラは何事もなかったかのように背中を向けている。微かに漂ってきた独特の香りで、コーヒーを淹れているんだろう、と言う事しか分からない。
「…あの、キラ?」
部屋に入ったきり今まで続く沈黙に耐えかねて、フラガは小さく声を掛けた。軽くこちらを振り返ったキラは、なんですかと普通に返事をしてカウンターの上にカップを出している。
「…その…なんでも、ない…」
頭の中でたくさん回っていた言葉達は、結局一つもマトモな文章にならなかったから、そう言った。変なの、と笑みを浮かべたキラは、何処か機嫌良くコーヒーをカップに注ぎ、リビングのローテーブルへと運ぶ。並べられていくカップと共に置かれたものに目を止めて、フラガはなんとも言えない顔をした。
「…嫌がらせか、おまえ…」
丸くて、赤い物体。紛れもなく、自分がかなりの決意と共に買ってきたもの。
「そんな事、ないですよ。」
ふわりと微笑って、可愛いじゃないですかと続けた。
「…まさかあなたが、買って来るとは思わなくて。」
そう言いながら、キラは隣りに腰を下ろした。いつもなら絶対に向かいにある専用スツールに座るはずなのに。
「…あの、キラさん…?」
ほんの少し後ずさりながら、思わず敬語になった。満面の笑みを浮かべた顔は、近くで見ると恐ろしいほど愛らしい。けれど、その裏でなにか言っているような気がしてならない。
「僕が、いつもいつもいっつも、お皿に残ったピーマン見てなんにも感じてないとでも思ってました?」
フラガが後ずさった分だけ身を乗り出したキラは、更に笑みを深くする。
「だから、やっとその気になってくれたんだなあ、と思うと、とても嬉しいんです。」
だから、と続けたキラは、何処から出したのかもうひとつのパプリカをテーブルに置いた。それを見て、奇しくも全く同じ時期に、同じ事を考えて実行に移したのだと理解する。
「…だから、頑張りましょうね?」
逆らえないオーラを出しながら念を押すキラに、頷く事しか出来なかった。
氷水を軽く潜らせたパプリカの輪切りを、薄紅色の魚が並べられた皿の上に散らす。白に近い皿の上で、それはとても鮮やかに目に映る。みじん切りのタマネギをバランス良く振り掛け、最後にペペロンオイルを振って出来あがり。
よし、と満足げに頷いてから、カウンターの向こうにぼんやり座っていたフラガに出来ましたよと声をかける。何処か疲労感を漂わせたフラガは生返事をして、ダイニングテーブルに用意されていたワインの栓を抜くべく、ボトルに手を伸ばした。
ビシソワーズ、生トマトのカッペリーニ、鯛のマリネ。夏らしく涼しげなメニューをテーブルに並べていると、揃いのグラスにワインを注いでいたフラガはマリネで目を止めて溜息を吐いた。
「…やっぱ出て来るか…」
その呟きに、苦笑を返す。
「緑じゃないだけ、我慢して下さいよ。」
本当は、売っているものではなくて採れたてを食べたら印象が違うのだと言いたかった。見た目にばかり拘って、店頭に並ぶものはとても味が薄い。生活が懸かっているから、良い値がつくものを生産者は提供するべく努力している。その代償に、素材が持つ本来の味を損なっているのだと理解している消費者は少ない。だから野菜嫌いだと言う人は、本当にホンモノの野菜を食べた事がないのかも知れない、と思った。
もっと街を外れれば農場も広がっているから、今度は直接買いに行ってみようかな、と思う辺り、キラ自身も妙なところに拘りすぎているのかも知れない。そこに考えが至ると、小さく笑った。
「…なんだよ。」
開き直ったのか、フラガは半目でキラを睨む。なんでもないです、と返してワインが半分以下のグラスを手に取った。
「…今度、少し遠出しましょうか。」
提案してみるだけなら、自由だ。相変わらず零れる笑い声に、目の前の人は諦めたように好きにしてくれ、とだけ言った。
「それじゃあ、少佐のピーマン嫌い克服を願って。」
軽くグラスを掲げると、フラガは少しだけ眉を寄せて、困ったように微笑う。何処か、諦めも混じっていた。
そんなところも、多分キラにしか見せない。それが楽しくて、嬉しいから時々わざとピーマンを出したりしている。多分、フラガはなにもかも承知で、それでもキラの期待通りの反応を返してくれるのだ。
「…努力、だけはな。」
そういって同じようにグラスを上げたフラガに、キラはめいいっぱいの笑みを浮かべた。
「…乾杯。」
明けて、翌週。
キラにパプリカの事を進言した事がバレて、フラガに追い掛け回される副官を眺めながら、平和だなあ、と呟いてデスクに頬杖をついて。
「…やっぱり今度の週末、ピーマン買いに行こう。」
こっそりとキラが農場訪問計画を進行させていた。
窓の外で、夏の終りの強い陽射しの下、向日葵が揺れている。