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綾沙かへる
綾沙かへる
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唄う風

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晴れた日には、何を想う?





 最近、キラが冷たい。
 デスクに頬杖を吐いて、フラガは欠伸混じりに端末を叩く。季節は春真っ只中で、穏やかに暖かな陽気は眠気を誘う。
 元々あまり向かないデスクワークを、他にすることがないからと言ういい加減な理由でこなしながら欠伸を連発するフラガを、彼の副官は呆れたように眺めては溜息を繰り返す。それに気付きながらも敢えて知らない振りをして、思うように進まないモニタから視線を引き剥がした。
 「…なあ、この書類、提出までもう少し余裕あったよな?」
 コーヒーメーカーの前にいた副官はその言葉に微かに眉を寄せながらも頷く。
 「そうですね、来週辺りには提出して頂かないと困りますが。」
 そう言って慣れた手付きでコーヒーをカップに注ぐ。
 「…フラガ教官、忙しいのは今週までの筈ですから、そう腐らなくても大丈夫ですよ。」
 その言葉に、フラガは方頬を支えていた肘から力が抜けた。
 「…お見通し、な訳ね。」
 溜息混じりに呟くと、彼女は心底楽しそうに微笑う。彼女には、フラガの気が抜けているのも、もう少し真面目に取り組む筈の簡単な書類が進まないのも、原因は分かっているらしい。
 忙しいのは今週まで、と言うのはフラガの予定ではなく、キラの予定だ。
 当然フラガもそれは承知しているし、だからと言ってしょっちゅうベタベタくっついているほど子供でもない。むしろ、いい大人がそんな事を言い出したらみっともない。それでも、こんなに擦れ違っているのに大きく構えて待っているほど余裕がある訳でもないのだ。
 「…冷たいよ、なあ、あいつは。」
 擦れ違っていると言っても、毎朝食堂で顔を合わせる。お互いに朝は苦手な方だと言うのに、その時間を持ちたいが為に努力している。微笑ましいことしますね、とキラの副官には皮肉たっぷりに揶揄されても、キラの顔を見ないと落ちつかないくらい傍にいることが当たり前になっていて。
 「一方的な感情だけでは、いつか破綻しますよ。」
 さらりときつい一言と共に、彼女はフラガの散らかったデスクの隙間を見つけると、カップを置いた。
 「…最近、機嫌でも悪いのか?」
 盛大に眉を顰めながら呟くと、艶やかとでも言ったほうが良いような笑みを浮かべて否定する。
 「フラガ中佐が、きちんと仕事をこなしていらっしゃれば、こんなに喜ばしい事はありませんもの。」
 そう言いつつも、彼女の頬には他人の不幸は蜜の味、とでも書かれているような気がした。それが悔しい。
 「…期限に余裕があるなら、今日はやめ。」
 そう言って席を立つ。
 「ああそうだ、この辺で家電直してくれる人知ってる?」
 唐突に変わった話題に首を傾げながらも、さあ、と返事をした副官に笑みを返して、中身が半分程になったカップをコーヒーメーカーの横に置き、ご馳走さん、と呟いた。
 「ちょっと困っててさ。悪いけど、後よろしく?」
 そう言い残して、部屋を出る。
 それがあまりにも自然だった所為か、とり残された副官は巧く逃げられた事に気付くと静かに冷たい笑みを唇に刷いた。
 「…あら、どうなっても知りませんよ…?」










 ここ数日で、気付いた事がある。
 毎朝顔を合わせるフラガが、やけに小奇麗になっている、と言う事。そうは言っても、普段から小汚い訳でもなく、一般的な独身男性の一人暮しにしては上出来、と言ったほうが近いかも知れない。それでもマメにアイロンをかけたりしている訳でもなかったし、何事も大雑把なフラガのシャツには洗濯皺とアイロン皺が同居していたりした。それなのに、ここ数日のフラガのシャツは綺麗にアイロンがかかっていて、制服にも相変わらず無造作に捲くり上げられている袖を除けば皺一つない。毎日クリーニングにでも出しているような。
 「…なんか、あったのかな…?」
 不意に、現在の状態に良く似た光景を思い出した。まだ、キラがここに来たばかりの頃の事。
 その時もやっぱり小奇麗になっていて、内緒にしているけれど他に世話を焼いてくれる女性でもいるのかと思った。実際に問い質してみたら、面倒だから、と言う理由で真新しい洗濯機は荷物に埋まっていたりした。
 もしかすると、またその癖が出たのかも知れない。キラが週末に入り浸っているから、比較的真面目に家事もこなしていたけれど、ここひと月ほど忙しくて休日もなかった所為で、全くあの家の中がどうなっているのか想像するのも恐ろしい気がする。
 視線を走らせたカレンダー。
 「…明日、行ってみようかな。」
 久し振りの休日。
 その呟きが聞こえたのか、タイミング良く書類を抱えて入って来た副官は微妙な表情を見せた。
 「…いっそ、同居でもしたらどうなんです?」
 溜息混じりにそう言って、また呆然とするくらいの紙の束と、山ほどのディスクをキラの目の前に積み上げた。
 「…それは無理、かなあ…。」
 苦笑混じりに答えると、なんでですか、と呆れたように返された。
 「けじめとして、ね。まだ…その時期じゃないんですよ。」
 本当は、誰かに依存してしまうのが恐いだけだ。だから、ここに入る時にも条件を出した。それは、自分自身にも言い聞かせてきた事で、未だに守り続けている。
 ずっと傍にいたい、他には何も要らない、なんて何も考えずにいられた時間はとっくに終っていて。始めから、そんなに易しい関係ではなかったし、甘えた事を言える状況ではなかった。
 誰かの庇護の元ではなくて、自分の足で、一人で立っていられるようになったら。
 そう決めて、それまでは一人で頑張ってみようと思って。
 だから、このくらいの距離が丁度良い。それはフラガも理解してくれている筈だと。
 そうですか、と何処か安心したように彼は呟く。
 「取り敢えず、今日中にコレだけ目を通しておいて下さい。」
 突然上機嫌になったような気がした。それとは正反対にキラは眉を寄せて、自室に消えて行く背中に呟く。
 「…もしかして、邪魔されてる…?」
 それは当たらずも遠からず、と言ったところ。















 ハンドルを握るのは、随分と久し振りだ。
 復帰が決まった時に、取り敢えず一通りのものは動かせた方が良いだろうと思って可能な限りの免許は取った。車はその筆頭で、他の多少特殊なものに比べれば、大抵の人は持っているごく一般的なもの。
 貰えるものは貰っておきなさい、とマリューに半ば押し切られるように、戦争中から復学するまでの間の階級に見合った給与はキラの年齢にしては大層な金額で、その中から車を買った。
 置いておく場所があったから、少し大きめのスポーツワゴンを選んだ。低いエンジンの振動は、なんとなく心地良く響く。ひとつ間違えれば立派な凶器だけれど、あからさまに兵器だったモビルスーツに乗っているときよりは精神的な余裕が違う。
 手応えのあるステアリングは、滑り止めの為に皮のカバーが撒いてある。気持ち湿り気を帯びたように手のひらに吸いつくそれを軽快に握って、アクセルを踏み込む。車外で聞けば耳障りなほど煩いエキゾーストノートも、車内では驚く程静かに響く。
作品名:唄う風 作家名:綾沙かへる