いただきますの、その前に。
それでも、キラは真剣そのものだった。この人を叩き起こさなければ、と言うのは最早一種の義務のようになっている。
今の所、負け続けてばかりの朝の攻防。悔しさと、ただでさえそれを増長させる空腹とで、キラはかなり苛立っていた。ゆっくりと両手に持っていた打楽器をフラガの耳元に近付けて、深呼吸をひとつ。
普段は調理器具として台所から出る事のないそれらを、力一杯叩き合わせた。金属がぶつかり合って立てる耳障りな音が響いても、フラガはほんの少し眉を動かしただけだ。
「…ッこの…!」
ダメ大人、と低く呟いて、キラは更に叩き続ける。近所迷惑など知った事ではない。ただし、週明けの恒例行事となりつつあるコレが、両隣及びその周辺の遅刻撲滅に役立っている、と言う事をキラは知らなかった。
これでもか、くらいに叩き続けても余り効果を上げる事はなく、いっそおたまで殴ろう、と思ったところで、ダメ大人と評されたその人は薄く目を開けた。
「…お前、それ近所迷惑…」
起き抜けの幾分間延びした声でそれだけ呟くと、再び目を閉じようとするフラガに慌ててキラは広い肩を揺さぶった。
「少佐、そこで寝直さないで下さいってば!」
されるがままに頭を揺らしていたフラガは、解ったから、と言ってキラの手を止める。
「…あー、良く寝た…」
ようやく身体を起こして、欠伸混じりにフラガはそう言った。
「良く寝た、じゃないです。何時だと思ってるんですか。」
遅刻しますよ、と言ってキラは放り出してあったフライパンを回収する。今日は勝てたかな、と内心ガッツポースだったキラは、そのまま部屋を出ようとした。フラガの寝起きはとても悪い。用が済んだらさっさと退散、が鉄則だと、キラは嫌と言うほど学んでいる。
「…キーラ。」
とても浮れた声が聞こえて、動きを止めた。
絶対、なにか企んでる。
微妙に距離を取って、キラはなんですかと半分だけ振り返った。と、思ったら強く腕を引かれて、バランスを崩す。
「わ…あッ」
傾いた身体が収まったのは、フラガの腕の中だ。いつでもバーゲンセールか、と思うほどの満面の笑みに、とてもとても嫌な予感がする。
「…なんにもしないと思う?」
考えている事が解るのか、フラガは楽しそうに言った。言葉に詰まったキラの顎を捉えて、柔らかな口付けを落とした。軽く重なっていただけだった唇は、舌先で擽られて、次第に深くなっていく。がっしりとした胸板を叩いてささやかな抵抗を試みても、開放してくれそうもない。
「…ふ…ぁ…ッ」
たっぷりと口付けを交わしてようやく開放されるころには、キラの唇が紅く色付いていた。
「…おはよう、のキス。」
相変わらずなんでもないことのようにフラガは笑って、固まったままのキラをカーペットの上に残し、バスルームへと消えて行った。
「し…信じられない…ッ」
朝っぱらからなんて事をするのだろう、というのと、またしてもしてやられた、というのと。
「こ…ンの、ダメ大人ぁッ!」
ピーマン食べらんない癖にー、と心の中で付け足して。
腹立ち紛れに、近くにあった壊れた目覚ましを力一杯壁に向かって投げつける。壁に当たって見事に粉々になったそれの残骸を、結局片付ける事になるのは自分だと言う事も、暫く経ってから気付く事になる。
取り敢えずキッチンで水を一杯飲んでから、作り掛けだった朝食の準備を再開する。
先ほど打楽器と化していたフライパンを火に掛けて、たっぷりとバターを溶かす。たっぷりになってしまったのは苛立っているから大雑把になってしまっただけのことで。どのみち、カロリーが高かろうがコレステロール値が上がろうが、今のキラの頭にはこれっぽっちも掠っていない。
冷蔵庫から追加した野菜を切り刻みながら、解いた卵に牛乳と生クリームを加えてフライパンに流し込む。予め炒めてあったタマネギとベーコンを放り込み、大きく掻き回して形を整え、刻んだチーズとそれを真ん中に乗せて手際良く返した。
「…見てろよ…?」
キラにしては珍しくとても低い声で悪態を吐いて。
怒ってなんかいませんよ、とキラは言った。
ちょっとだけ、やり過ぎたかなあ、と自分でも思っている。けれど、どうにも止められないから仕方がない。
シャワーを浴びて、漸くはっきりと脳ミソが活動を始める。リビングに戻ってくると、相変わらず見事なまでの朝食が並んでいた。
ツナの厚切りトースト、黄金色のオムレツ、添えられたサラダとコーヒーの香り。まるで見本のようだ、とフラガは感心したように呟いた。
牛乳のパックを片手にキッチンから出てきたキラは、とても綺麗に微笑って、その言葉を繰り返したから、少し油断していたのも事実だ。
「…ちょっとゆっくりしすぎてるから、早く食べて下さいね。」
笑顔付きで促されて、悪い気がする訳もなく。
「…ごめんなさい、もうしません!」
オムレツの中身を見た途端に、テーブルに手を突いて謝っていたり、した。
結局、キラが勝った事になる。
この瞬間ほど、『戦いは勝って終らなければ意味がない』と言う言葉を噛み締める事はない。
終劇
作品名:いただきますの、その前に。 作家名:綾沙かへる