君のいる、世界は03
彼は今君の執務室にいると思うが、と言って老人は隣の部屋にいる青年を呼んだ。
「彼に案内して貰うといい。…これからよろしく頼むよ。」
ついでに着任祝いだと言って持たされた小さな向日葵の鉢植えを持って、青年の後に続く。時折すれ違う士官や候補生達に観察されながら、キラはよどみなく各建物の説明をする青年が立ち止まるまで頭の中に敷地内の地図を叩き込んでいた。
「ここがあなたの執務室です…多分、今凄い事になっていると思いますが。」
そう言った青年に続いて部屋に入ると、女性士官がひとりでデスクの回りを片付けていた。
「…あれ、フラガ教官は?」
その問い掛けに、女性はさっきメール持って外に行ったわ、と言って開け放たれた窓の外を視線だけで促した。
「もうちょっと待っていればねぇ。」
苦笑混じりにそう言った女性は、キラに向かってはじめましてと言って敬礼する。
「先ほどまでこのデスクをお借りしていました。…フラガ教官は、そこに。」
そう言われて、窓の下を覗き込む。建物を囲むように植えられた木の下に、記憶と変わらない背中が見えた。
「…少、佐…」
聞こえるはずのない呟きは、あの時と同じ。
そうして、今度こそ大きな声で、その名を呼んだ。
就職先は地球。
そう書かれたメールに一瞬思考が真っ白になった。
「…って、それだけかよ…」
無理やり書類を片付けて、ようやく受け取ったものだと言うのに。
「これだけじゃなんの事やら。」
溜息混じりに呟いた時、不意に誰かに呼ばれた。
誰かと言うには、あまりにも限定されたその呼び方。記憶に残るものと、寸分違わずに。
「…あれ…?」
後ろ、と言うより、上の方から聞こえた気がする。
そう思って、振り返った視線の先。ついさっきまで、自分のいた部屋の窓辺に立つ姿。
「…キラ?」
笑みを浮かべたその顔はすぐに見えなくなって、思わず立ちあがる。
そこにいて下さいよ、と言う聴き慣れた副官の声がして、訳が解らないまま建物の出口を凝視した。
走って来る姿は、紛れもなく。
「フラガ少佐!」
少し背が伸びたなとか、相変わらず痩せてるなとか。
今更ながら、全て知っていて黙っていたであろう老人にも少しだけ恨みごとを言いたくなったけれど。
「…キラ。」
息を切らせて目の前に立っているのは、紛れもなく現実で。
それでもそれを確かめたくて、その細い身体を抱き締める。
記憶と変わらない人。
嬉しくて、つい大声で呼んでしまってから、少しだけ反省して。
目の前に表れたその人は、ひどく驚いて、それから笑みを浮かべて。
視界が真っ白に塞がれて、抱き締めてくれたんだと理解した。
「し…中佐。」
今ごろ間違いに気付いて改める。
それに応えるように緩んだ腕の中で顔を上げる。
柔らかな笑みを浮かべたフラガをきちんと見て、嬉しくて泣きそうになった。
そうして、震える声で告げる。
「…ただいま。」
「だから言ったじゃない。」
彼女はルージュを引いた唇を笑みの形に吊り上げて、楽しそうに笑う。
「100番目のメールは、嬉しい知らせよって。」
ちゃんと見ないからよ、と画面の向こうで彼女は続ける。
「…そうだっけ?」
小さく折り畳まれた紙片を制服の上着から探り当てて、プリントアウトされた文書番号を確認する。
確かに、そこにある数字は100。
専用のメールボックスに振られたナンバーも同じ。
「これで退屈な教官生活も、少しは刺激的になるかしら。」
そう言ったマリューに笑みを返して。
「…充分だよ。」
それを最後に通信を終えて、ふと思い出した。
「…お帰りって言ってやらなきゃな。」
それから、戻って来てくれて有り難う、と伝えなくては。
廊下から聞こえた声に応えながら、夕暮れの空に背を向けた。
終
作品名:君のいる、世界は03 作家名:綾沙かへる