君のいる、世界は07
人は、人に何を求めるのだろう。
空から落ちる雫が、窓に当たって流れて行く。暗い雲に遮られた空は、その重苦しさを裏切るような早さで押し流されて行く。
夕闇が迫る時刻。
スコールが通り過ぎたあとには、オレンジ色の夕焼け。
窓の外から視線を剥がすと、静かに寝息を立てるあどけないとさえ感じるその人に戻した。驚いた、と言うよりも、呆れてしまった。一体今までどんなところで生きて来たのだろう。カイ本人も、暑さには弱い方だ。けれど仮にも軍人が、日射病で倒れる、なんて。
それから、キラの事を全く知らないと言うことに気付いた。今まで、どんな時間を過ごして来たのか、とか何が好きなのか、とかそう言う人が付き合って行く上での基本的なところ。少し思い返して見ると、キラの方で過去の事は一つも口にはしなかった様に思える。
倒れたキラをここまで運んで来たのはカイだ。意識を失った人間は、重い。けれど自分が軍人で、多少は鍛えてある事を別にしても、キラは軽い、と思った。およそ、軍人とは思えない。軍に所属していても、技官ですと言われた方が納得出来る。フラガに問い質したところ、珍しく歯切れの悪い口調でキラはパイロットだ、と聞かされた。
「…気になるなら、本人に聞いてみたらどうだ。」
カイは、戦争を知らない。メディアが伝える情報でしか知らないから、前線に立った経験を持つ人間の気持ちは分からない。知ってはいても、本当の戦争は知らない。
フラガが呟いたその言葉は、本当の戦争を経験してきた人間の、とても重い言葉。
その記憶を、戒めとしこそすれ、自慢げに話すほど愚かな人間ではないと言うこと。フラガも、キラも。あの場所で命を張っていた人々は、それを知らない人間には時折冷たい。
「…出来たら、こんな事にはなってない…」
補佐するばかりでなく、スケジュールも、体調の管理も、すべて副官の仕事。まだ二週間と少しとはいえ、全く出来ていないのだから。
気付くと、重い溜息が零れる。
基地に所属する医師は席を外していた。次第に夕闇が迫る室内で、サイドテーブルにあった小さな明かりをつけるとカイはゆっくりと席を立つ。倒れたときに滑り落ちた携帯端末をテーブルに置くと、静かに眠るキラを残して部屋を出る。今日の出来事を報告して、来週からのスケジュールをもう一度見直さなければと思うと、踏み出す足がやけに重たく感じられた。
ああ、なんだか世界が暗いなあ、とぼんやりと意識したところでキラの頭は覚醒を始める。
すぐそばで柔らかな光を灯しているのは小さなライトで、カーテンの引かれた窓の外はすっかり夜の闇に沈んでいるようだった。
「…どのくらい、寝てたのかな…」
ゆるゆると頭をめぐらせて、室内の壁にかかった時計を確認する。意識を失ったのが昼前だから、半日ほどは眠っていたことになる。
覚醒直後だということを除いても、やけに体が重い。微かな浮遊感を伴って襲う倦怠感は、熱を出した後に似ている気がした。
そもそもどうして自分が倒れたのかということも解らずに、取り敢えずベッドの上に体を起こすと、とてもタイミング良く静かに部屋のドアが開いた。
「…そろそろ起きるころだと思った。」
苦笑交じりに呟いたその人は、片手に持っていたミネラルウォーターのボトルを軽く振って、気分はどうだと続ける。
「そんなに、悪くはないですよ。」
静かに笑みを浮かべて答えると、フラガはそうか、とだけ言った。
「たぶん、飯って言う気分じゃないだろうと思ってさ。」
ベッドサイドまで近づくと、持っていたスーパーの袋らしき物をがさがさと漁り始める。さっき買いに行ってきたんだ、と言ってサイドテーブルに並んだものは、ペットボトルと小さなカップに入ったシャーベット。
「キラ、これ好きだろ。」
ディフォルメされたオレンジと、カラフルなロゴが踊るパッケージには見覚えがある。郊外のショッピングセンターに軒を連ねるケーキ屋の、夏季限定商品だ。
「それ食って、今日はもう少し寝てろ。…軽い日射病だってさ。もっともお前さんはだいぶ暑さに弱いみたいだから、俺たちには軽くてもキラにとっては重症かもしれないけど。」
そう言って笑うフラガに、少しだけ恨みがましい視線を向ける。どうせ初めてですよ、と呟いて、キラはシャーベットのカップに手を伸ばした。起き抜けで火照っていた指先に、冷たい氷の感触が心地良い。
多少不本意ではあるけれど、せっかくなので遠慮なく、と言ったキラはシャーベットの蓋を取った。
舌先で解けていく氷の感触を楽しんでいる間に、もともと軽かった眩暈も倦怠感もどこかに行ってしまった。いつまでも医務室にいるのはいやだなあ、と思って自室に戻りたい旨を告げると、しっかり買い込んできていた自分のカップにスプーンを刺したまま、フラガは困ったように微笑った。
「それがなあ、ここの医者、明日の朝まで戻らないんだよな。一応、規則で。医師の許可がないと出られないんだってよ。」
離れたところにあるデスクの上に開いたままになっていた、日誌のようなものをぱらぱらと捲ってフラガは呟く。
「…だから、明日までキラはここにお泊り。」
とても子供扱いされたような気がして、そうですかとぶっきらぼうにキラは相槌を打った。
それが可笑しいのか、フラガは小さく笑ったようだった。
「…あ、そういえばさっきカイが来たぞ、俺んとこに。」
視線をシャーベットのカップに落としたまま、フラガは言った。それを何気なく追っていると、掻き回すばかりでまったく減らない。そんな動作から、伝えるタイミングを計っていたのだろうということに気づいた。
仲が悪いというわけでもなく、親しいというには程遠い、キラとカイの関係。当たり障りのない仕事の上だけでの関係は、ほんの少し前に始まったばかりで。感覚の違いなのかも知れないけれど、軍という組織に馴染まないキラにとっては、唐突に現れた部下という存在にどう接していいのかわからない。ただでさえ、抱えるものは大きくて、どのくらい表に出しても許してもらえるのかは解っていないのだ。
物は試しだとか何とかフラガに説得されて、ぎこちないながらもキラは少しづつ環境に慣れようとしている。けれど、お互いに自分の奥深いところまでは見せないように警戒しあっているようなものだった。
キラにとって一番怖いのはフラガがいなくなること。生き物である以上いつかは別れる時が来る、そんなことはとっくにわかっているけれど、それが今訪れたらと思うと目の前が真っ暗になる。
そこまでとは行かなくても、誰だって誰かに嫌われたりするのは悲しいし、気分も良くない。できれば良好な関係を作って、そこまで行かずとも当たり障りのない関係を作って。
面と向かって向けられる憎悪は、戦争中にたくさん経験してきたから、それがどれだけ辛くて悲しいことなのかキラには良く解る。
「…そうですか。」
中身が三分の一ほどになったカップをテーブルに置くと、ポケットに入っていたはずの携帯端末がそこに置いてある事に気付く。角に見覚えのない、擦ったような傷があった。
そういえば、意識を失う前に電話が鳴ったような気がする。
空から落ちる雫が、窓に当たって流れて行く。暗い雲に遮られた空は、その重苦しさを裏切るような早さで押し流されて行く。
夕闇が迫る時刻。
スコールが通り過ぎたあとには、オレンジ色の夕焼け。
窓の外から視線を剥がすと、静かに寝息を立てるあどけないとさえ感じるその人に戻した。驚いた、と言うよりも、呆れてしまった。一体今までどんなところで生きて来たのだろう。カイ本人も、暑さには弱い方だ。けれど仮にも軍人が、日射病で倒れる、なんて。
それから、キラの事を全く知らないと言うことに気付いた。今まで、どんな時間を過ごして来たのか、とか何が好きなのか、とかそう言う人が付き合って行く上での基本的なところ。少し思い返して見ると、キラの方で過去の事は一つも口にはしなかった様に思える。
倒れたキラをここまで運んで来たのはカイだ。意識を失った人間は、重い。けれど自分が軍人で、多少は鍛えてある事を別にしても、キラは軽い、と思った。およそ、軍人とは思えない。軍に所属していても、技官ですと言われた方が納得出来る。フラガに問い質したところ、珍しく歯切れの悪い口調でキラはパイロットだ、と聞かされた。
「…気になるなら、本人に聞いてみたらどうだ。」
カイは、戦争を知らない。メディアが伝える情報でしか知らないから、前線に立った経験を持つ人間の気持ちは分からない。知ってはいても、本当の戦争は知らない。
フラガが呟いたその言葉は、本当の戦争を経験してきた人間の、とても重い言葉。
その記憶を、戒めとしこそすれ、自慢げに話すほど愚かな人間ではないと言うこと。フラガも、キラも。あの場所で命を張っていた人々は、それを知らない人間には時折冷たい。
「…出来たら、こんな事にはなってない…」
補佐するばかりでなく、スケジュールも、体調の管理も、すべて副官の仕事。まだ二週間と少しとはいえ、全く出来ていないのだから。
気付くと、重い溜息が零れる。
基地に所属する医師は席を外していた。次第に夕闇が迫る室内で、サイドテーブルにあった小さな明かりをつけるとカイはゆっくりと席を立つ。倒れたときに滑り落ちた携帯端末をテーブルに置くと、静かに眠るキラを残して部屋を出る。今日の出来事を報告して、来週からのスケジュールをもう一度見直さなければと思うと、踏み出す足がやけに重たく感じられた。
ああ、なんだか世界が暗いなあ、とぼんやりと意識したところでキラの頭は覚醒を始める。
すぐそばで柔らかな光を灯しているのは小さなライトで、カーテンの引かれた窓の外はすっかり夜の闇に沈んでいるようだった。
「…どのくらい、寝てたのかな…」
ゆるゆると頭をめぐらせて、室内の壁にかかった時計を確認する。意識を失ったのが昼前だから、半日ほどは眠っていたことになる。
覚醒直後だということを除いても、やけに体が重い。微かな浮遊感を伴って襲う倦怠感は、熱を出した後に似ている気がした。
そもそもどうして自分が倒れたのかということも解らずに、取り敢えずベッドの上に体を起こすと、とてもタイミング良く静かに部屋のドアが開いた。
「…そろそろ起きるころだと思った。」
苦笑交じりに呟いたその人は、片手に持っていたミネラルウォーターのボトルを軽く振って、気分はどうだと続ける。
「そんなに、悪くはないですよ。」
静かに笑みを浮かべて答えると、フラガはそうか、とだけ言った。
「たぶん、飯って言う気分じゃないだろうと思ってさ。」
ベッドサイドまで近づくと、持っていたスーパーの袋らしき物をがさがさと漁り始める。さっき買いに行ってきたんだ、と言ってサイドテーブルに並んだものは、ペットボトルと小さなカップに入ったシャーベット。
「キラ、これ好きだろ。」
ディフォルメされたオレンジと、カラフルなロゴが踊るパッケージには見覚えがある。郊外のショッピングセンターに軒を連ねるケーキ屋の、夏季限定商品だ。
「それ食って、今日はもう少し寝てろ。…軽い日射病だってさ。もっともお前さんはだいぶ暑さに弱いみたいだから、俺たちには軽くてもキラにとっては重症かもしれないけど。」
そう言って笑うフラガに、少しだけ恨みがましい視線を向ける。どうせ初めてですよ、と呟いて、キラはシャーベットのカップに手を伸ばした。起き抜けで火照っていた指先に、冷たい氷の感触が心地良い。
多少不本意ではあるけれど、せっかくなので遠慮なく、と言ったキラはシャーベットの蓋を取った。
舌先で解けていく氷の感触を楽しんでいる間に、もともと軽かった眩暈も倦怠感もどこかに行ってしまった。いつまでも医務室にいるのはいやだなあ、と思って自室に戻りたい旨を告げると、しっかり買い込んできていた自分のカップにスプーンを刺したまま、フラガは困ったように微笑った。
「それがなあ、ここの医者、明日の朝まで戻らないんだよな。一応、規則で。医師の許可がないと出られないんだってよ。」
離れたところにあるデスクの上に開いたままになっていた、日誌のようなものをぱらぱらと捲ってフラガは呟く。
「…だから、明日までキラはここにお泊り。」
とても子供扱いされたような気がして、そうですかとぶっきらぼうにキラは相槌を打った。
それが可笑しいのか、フラガは小さく笑ったようだった。
「…あ、そういえばさっきカイが来たぞ、俺んとこに。」
視線をシャーベットのカップに落としたまま、フラガは言った。それを何気なく追っていると、掻き回すばかりでまったく減らない。そんな動作から、伝えるタイミングを計っていたのだろうということに気づいた。
仲が悪いというわけでもなく、親しいというには程遠い、キラとカイの関係。当たり障りのない仕事の上だけでの関係は、ほんの少し前に始まったばかりで。感覚の違いなのかも知れないけれど、軍という組織に馴染まないキラにとっては、唐突に現れた部下という存在にどう接していいのかわからない。ただでさえ、抱えるものは大きくて、どのくらい表に出しても許してもらえるのかは解っていないのだ。
物は試しだとか何とかフラガに説得されて、ぎこちないながらもキラは少しづつ環境に慣れようとしている。けれど、お互いに自分の奥深いところまでは見せないように警戒しあっているようなものだった。
キラにとって一番怖いのはフラガがいなくなること。生き物である以上いつかは別れる時が来る、そんなことはとっくにわかっているけれど、それが今訪れたらと思うと目の前が真っ暗になる。
そこまでとは行かなくても、誰だって誰かに嫌われたりするのは悲しいし、気分も良くない。できれば良好な関係を作って、そこまで行かずとも当たり障りのない関係を作って。
面と向かって向けられる憎悪は、戦争中にたくさん経験してきたから、それがどれだけ辛くて悲しいことなのかキラには良く解る。
「…そうですか。」
中身が三分の一ほどになったカップをテーブルに置くと、ポケットに入っていたはずの携帯端末がそこに置いてある事に気付く。角に見覚えのない、擦ったような傷があった。
そういえば、意識を失う前に電話が鳴ったような気がする。
作品名:君のいる、世界は07 作家名:綾沙かへる