君のいる、世界は07
そのときに落としたのだろうか。指先でざらざらとするその傷に触れていると、別の大きな手がそれを止めた。
「何で俺がすぐ来なかったのか、解った?」
つまり、そのとき電話をかけてきたのはフラガで、キラが倒れたときに傍にいたカイが応対したついでに報告したのだろう。思ったとおりに意見を述べると、フラガはよくできましたとばかりに目を細める。
「だから僕がどうして倒れたかも知ってるし、眼を覚ますタイミングも計れるわけですか。」
カイの報告を聞いて、ここに現れたのだろうと。
キラは微かに眉を寄せた。我侭は言えない。けれど、目が覚めたときに一人でいるのは、どうしたって寂しいし、悲しい記憶を呼び起こす。毎日朝一人で目を覚ましているのに、こんなときだけ心細くなる。
「…キラ。」
静かにささやいて、フラガは重ねた手のひらを柔らかく握る。
「俺は、カイを信用してる。」
ちくり、と心の奥が痛んだ。
けれど、目を伏せることくらいしかキラに出来ることはない。
「…昼間、あいつにお前のことを訊かれた。キラ、お前何も話してないんだな。」
困ったなあ、と苦笑交じりにフラガは続ける。
「俺が話せることは少ないからな。…まだ、思い出すのは辛いかもしれないし、自慢できることじゃないけど、それでも、たまには本音も必要なんじゃないのか?」
現在公開されているキラの経歴は八割が嘘だ。基地のライブラリで照会をかけても、現在のことしか表示されない。それ以上の情報は機密事項扱いになっていて、本人ですら見ることが出来ない。所属部隊長、一部の上層部の人間だけがアクセスできるその情報も、真実ではなく。確認のためにそれを見たキラは思わず苦笑してしまった。キラの本当の経歴は、フラガと校長を除けば本部のごくわずかな人間のみが知っている。それは、キラがコーディネイターであるという事実を知っている、ということ。 おそらく、地球軍から見てもザフトから見てもキラが重要人物だということに変わりはないのだろうと思う。監視を離れて、ここでこうして生活していることだって、マリューやアスランがそれこそ手を尽くしてくれたからだということも、よく理解しているし感謝もしている。
数奇な生まれと、巡り合った機体と。
どちらも、切り離せないほど大きなもの。
「…本音、ですか。」
微かにキラは笑みを浮かべた。
「フェアじゃないってのは、解りますよ。」
赴任してすぐに、カイの呟いた言葉。それが真実かどうかなんて、パソコンが自分の手足になっているようなキラにとっては造作もなく調べのつくことで。
だからそれが真実だと知ったときから、キラは自分自身を卑怯だと思っていた。容易には打ち明けられないけれど、これからしばらくは一番近いところにいるのだからある程度の情報は必要で。
「…彼、が…この間教えてくれました。」
誰かに許可してもらうことではなく。真実を伝えるか否かは、キラに一任されている。それでも。
「…自分は、ハーフだって。本当に、僕の不用意な一言で。すごく…辛そうな目をしていて。辛いのは、嫌です。僕だけじゃなくて、ほかの誰が辛くても嫌なんです。だから、そこから先には踏み込めない。」
もう、傷つくのはたくさんだから。
地球軍とザフトは戦争をしていた。ナチュラルとコーディネイターが争っていた。
その事実は、時間が流れても覆ることはなく、いつか傷は癒されても、凄惨な記憶はきっと消えることはない。
「…少佐、僕は…臆病ですか?それとも、卑怯ですか?」
ぱたり、とシーツの上で滴が跳ねた。
「…僕はもう、誰かに憎まれることが嫌なんです。」
それはここに、この場所にいる限りついて回る。
この場所に生きる人たちの中で、それは異端視され、憎むべきものとしての認識が未だに残っている限り。
「だって僕は、コーディネイターだから。」
あの機体を駆って、どちらにもつかずに、大切な人を守るために戦っていたから。
唇を噛締めて、ただ俯く。そっと髪を撫でた手に引かれるまま、抱き締められて。
「…関係ないよ、キラ。いつだってお前は前を向いてきただろう?」
真っ直ぐに。
ただひたすら、その向こうの世界を見てきたのだと。
「あいつのことを、俺は信用してる。キラ、お前のことは、信じてるから。」
恐る恐る上げた視線の先で、フラガはやわらかく微笑った。
額に、瞼に、頬に。ゆっくりと降り注ぐ口づけを受けながら、キラは強張って震えていた肩から力を抜いた。
「…少佐、ずるい、です…」
とても近いところで、楽しそうな色を浮かべる空色の瞳を見て。
その中に、自分が映っているのが少し可笑しくて、微かに笑う。
「…オトナですから。」
静寂の室内に、忍び笑いを響かせながら。
溜息を、不安ごと消し去るようなキスをする。
立ち聞きするつもりなんて、全然なかった。
いまさらな言い訳を、扉の向こうで固まったままカイは繰り返し自分に言い聞かせていた。
細く開いた引き戸の向こうで、二つの影が重なっている。姿を見ずとも、零れてくる声を聴けば誰か、なんてすぐに分かる。
憧れてやまない人と。
つい最近出来た、自分の上司。
別に珍しいことではなく、そう言う恋人を持つ友人だっている。隣の市に行けば、結婚も認められている。今の世界では、それくらい普通のこと。
「…顔は確かに可愛いよ…」
長い溜息と共に、事実を認識して零れた呟き。そうして、ああそうか、と色々な所で納得が行く。
キラが、どうしてフラガの前でだけ、あんな表情を見せるのか。どうして、フラガはキラに拘るのか。大切に守っているのはなぜなのか。
顔が可愛い、なんて言うのはカイの勝手な感想だ。キラを見て、その手の感想を持たない人間がいたらお目に掛かりたいけれど。
ふつり、と湧きあがった感情は、悔しさだ。
キラのことは良く知らない。けれど、フラガのことはとても尊敬している。その憧れる人に、恋人がいて。
「…なんだよ、それは…」
この基地で、フラガは人気者だ。気さくで、偉ぶったりしないしパイロットとしての腕も良い。かつて地球軍の英雄と呼ばれた人に、憧れる若者はとても多い。カイもその一人で、直接教えを受けた。それがとても誇らしくて、嬉しかったのに。
あんなに優しい顔は、知らない。その事実が、とても悔しい。
眉を寄せて考え込んでいると、なに唸ってるんだ、と聴き慣れた声がした。
「…え」
弾かれたように振り返ると、さっきまで室内に居た筈の人が立っている。
「…どうした?キラに用があってきたんじゃないのか?」
とても間の抜けた顔をしていたんだと思う。苦笑混じりにフラガはそう言って、それから不意にもしかして、と呟いた。
「…今の、見てた…?」
とても小さな声で、そう言うから、カイはしばらく考えてから頷く。
「あの、立ち聞きするつもりは、全然…」
難しい顔をしたフラガに慌てて言葉を繋げると、ちょっとこっちこい、と言ってカイの肩を掴んで歩き始める。
時間帯も重なり、夜勤の兵士以外に人影のない休憩スペースまで引き摺られて来ると、フラガは溜息をついた。
「…あの…?」
作品名:君のいる、世界は07 作家名:綾沙かへる