君のいる、世界は08
この人の隣に立つこと。立っていられる、と言うこと。
わくわくする、なんて、久し振りだ。
とても、顔色が悪いように見える。
視界の片隅を霞めるようにしてときおり観察した相手は、少しだけ眉間に皺を寄せてモニタを睨んでいた。
新学期が始まって、慌ただしくも懐かしい、雑然とした喧騒が戻ってきた灰色の建物で、そこだけ切り取られたように静かな空間。この部屋の主はまだ若い教官で、その見掛けに似合わずとても静かな時間を好んだ。たまたま足を踏み入れた先の中年の士官の部屋は、驚く程の音量でヘヴィメタルが響いていたりすると言うのに、自分の上官はぴたりと窓を閉ざして、冷房効率を考えてか、ブラインドまできっちりと下ろしている。お陰で、室外の喧騒は何処か遠い世界のように思えた。
少し前に日射病で倒れる、と言う軍人としては考えられないような事件を起こしたその人は、講義が始まった途端にどんどん体調を崩しているように思えてならない。時間が終って部屋に戻る度に、青褪めて行く顔を見ていると、こっちまで気分が沈んで来そうだった。
「…ヤマト教官。」
仕方がない、と半ば義務感にかられて溜息混じりに自分のデスクを離れると、相変わらず難しい顔をしたままモニタを睨み続けるキラに声をかける。
唐突に振ってきた声に心底驚いたような表情でカイを見上げていたキラは、たっぷり沈黙を取ったあとになんですか、と首を傾げた。
全く自覚がない、と言うのが恐ろしい。
「…お加減が悪いのでしたら、医務室に行かれる事をお奨めしますが。」
ただでさえ、気温も湿度も高いのだ。いくら空調が万全で快適に保たれていると言っても、同じ空間にいるのが死人の一歩手前のような顔をした上官では、こっちの気分が滅入ってしまう。酷い顔色ですよ、と付け加えるとキラは曖昧な笑みを浮かべた。
「…人が、たくさんいる所、苦手で。ちょっと人酔いしてるだけです。」
ふわりと微笑んで、そんな答えが返って来た。それでも、前例があるだけにカイは気が抜けない。
「…あなたに何かあると、困りますから。」
少し、意地が悪いかも知れない。けれどそれもまた、事実で。暑さに弱いのかも知れない、と見当をつけたから、移動にすら気を配って。
大丈夫ですから、と言ってキラはまたモニタに視線を戻してしまう。この話はお終い、と態度で示していた。
滑る様にキーを叩く姿を見ていると、さすがはコーディネイターと唸りたくなる。自分とは比べものにならないスピードも、一度だけ覗いたモニタを流れて行く文字らしきものも、全く理解出来なかった。けれど、キラに出会ってカイはひとつ認識を改めた。コーディネイターと言う生き物を誤解していた事に気付いて。
口さがない人々は、まるで汚らわしいものを見るように彼らを化け物、と罵倒するけれど、そんなのは偏ったただの憶測で。実際に近くで観察しているとまるっきり普通だった。それどころか、とても些細な事で笑ったり怒ったりするただの子供のようで。少しだけ年のわりに大人びた表情を湛えてはいたけれど、それはキラの「特殊な事情」とやらの為せる業なのだろう。
フラガから得た情報は、とても少ない。それだけで、キラの事を知ったような気になるのは失礼だし危険だと思った。そのうち話してくれるだろうとフラガは言っていたから、もしかしたら人見知りするのかも知れない。
だいぶ見方が好意的になっているのは、キラがコーディネイターだと知っているから。軍人だと言うのに、少し外に出ただけで日射病で倒れてしまったように、体力のない子供みたいな姿を見ているから。
キラがコーディネイターだと言う事を知っているのは、ごく僅かな人間だけなのだと聞いた。カイがそれを知っていると言う事を、キラは知らない。時折物言いたそうな視線を向けては、すぐに逸らす。そんな事が断続的に続いている。それを問い質そうにも、そんな勇気が自分にない事を知っているから、溜息ばかりを吐いている。
堂々巡りを始めたカイに耳に、遠くから講義終了を告げるチャイムが聞こえて来た。
ダメだなあ、と呟いて、鏡に映った顔に苦笑する。指摘された通りに、酷い顔をしていた。
夏バテと言うのだと、受付けにいた女性は苦笑混じりに教えてくれた。空調の整えられた所に慣れていると、不意に晒された自然の環境に耐え切れなくて、生き物の本能がおかしくなってしまうのだと。
蛇口を捻って、流れ出す冷たい水で顔を洗って、上げた視線の先には、酷く青白い顔をした自分。小さく採られた窓の向こうからは、規則正しい掛け声が聞こえてくる。多分、訓練の時間なのだろう。キラ自身は、一度も参加した事がないし、その必要もないらしい。そんな説明を受けるよりも前に、自分で向いていないことくらい分かっている。参加しろと言われても、こんな顔色では追い返されるのが関の山だ。
洗面所を出ると、不意に話声が聞こえる。楽しそうなものではなくて、どこか一方的な。
「…なんだろ?」
この時間は訓練中で、講義のない教官と事務担当の職員しか残っていない筈なのに。
少しだけ不審感を抱きながらも、声のするほうに近付いて行く。リノリウムの床と、靴底が擦れあって軽く音を立てた。
何人かの背中が視界に入る。キラの執務室の少し手前。近付くに連れて聞こえるのは、明らかに誰かを罵倒しているように聞こえる。背の高い兵士たちの向こう側にいたのは、微かに眉を顰めて俯いた、良く知る顔。
そう歳の変わらない兵士達に囲まれて、カイはただ黙っている。けれど、きつく引き結んだ唇と、固く握られて色を失った両手が、それに対して相当怒りを覚えているのだと覗わせた。
ここで乱闘騒ぎを起こしてもらっても困るんだけど、と妙なところでズレた感想を抱きながら、キラは少しずつ現場に近付いて行く。それに気付いたカイが視線を上げて変に歪んだ表情を見せるのと、溜息混じりにキラが言葉を紡いだのは殆ど同時だった。
「…なに、してるんですか?」
固まっていた兵士達にとって不幸だったのは、キラが制服の上着を着ていなかった事と、コーディネイターだと言う事を知らなかった事だ。
「これはまた、随分な美人さんがおいでだよ。」
一番手前にいた一人が、下品な口笛のオプション付きでそう言って、仲間達と笑い合う。美人、と言う形容詞が自分に向けられたのだと理解した途端に、キラは静かに自分の中でなにかが切れる音を聞いた。
「お嬢さん、ここは迷子センターじゃないから、俺達がいいところまで連れてってやろうか?」
今ここで可愛がってやってもいいぜ、と言ってまた下卑た笑みを張りつかせる兵士達を睨んだキラの瞳から、すうっと光が消えて行く。次いで、綺麗な笑みを浮かべた。
「…ここは廊下で、僕はこの先に用があるんですけど。」
酷く冷たい声だった。顔はふわりと微笑を湛えたまま、冷たい光を宿した瞳は、少しも笑ってはいない。それを見ていたカイは、背筋を氷が滑り落ちて行くような寒気を感じた。
切れると恐い。
フラガは確かにそう言っていた。もしかしたら、今のこの状況は非常にマズイのかも知れない。
「…あの、ヤマト教官…ッ」
わくわくする、なんて、久し振りだ。
とても、顔色が悪いように見える。
視界の片隅を霞めるようにしてときおり観察した相手は、少しだけ眉間に皺を寄せてモニタを睨んでいた。
新学期が始まって、慌ただしくも懐かしい、雑然とした喧騒が戻ってきた灰色の建物で、そこだけ切り取られたように静かな空間。この部屋の主はまだ若い教官で、その見掛けに似合わずとても静かな時間を好んだ。たまたま足を踏み入れた先の中年の士官の部屋は、驚く程の音量でヘヴィメタルが響いていたりすると言うのに、自分の上官はぴたりと窓を閉ざして、冷房効率を考えてか、ブラインドまできっちりと下ろしている。お陰で、室外の喧騒は何処か遠い世界のように思えた。
少し前に日射病で倒れる、と言う軍人としては考えられないような事件を起こしたその人は、講義が始まった途端にどんどん体調を崩しているように思えてならない。時間が終って部屋に戻る度に、青褪めて行く顔を見ていると、こっちまで気分が沈んで来そうだった。
「…ヤマト教官。」
仕方がない、と半ば義務感にかられて溜息混じりに自分のデスクを離れると、相変わらず難しい顔をしたままモニタを睨み続けるキラに声をかける。
唐突に振ってきた声に心底驚いたような表情でカイを見上げていたキラは、たっぷり沈黙を取ったあとになんですか、と首を傾げた。
全く自覚がない、と言うのが恐ろしい。
「…お加減が悪いのでしたら、医務室に行かれる事をお奨めしますが。」
ただでさえ、気温も湿度も高いのだ。いくら空調が万全で快適に保たれていると言っても、同じ空間にいるのが死人の一歩手前のような顔をした上官では、こっちの気分が滅入ってしまう。酷い顔色ですよ、と付け加えるとキラは曖昧な笑みを浮かべた。
「…人が、たくさんいる所、苦手で。ちょっと人酔いしてるだけです。」
ふわりと微笑んで、そんな答えが返って来た。それでも、前例があるだけにカイは気が抜けない。
「…あなたに何かあると、困りますから。」
少し、意地が悪いかも知れない。けれどそれもまた、事実で。暑さに弱いのかも知れない、と見当をつけたから、移動にすら気を配って。
大丈夫ですから、と言ってキラはまたモニタに視線を戻してしまう。この話はお終い、と態度で示していた。
滑る様にキーを叩く姿を見ていると、さすがはコーディネイターと唸りたくなる。自分とは比べものにならないスピードも、一度だけ覗いたモニタを流れて行く文字らしきものも、全く理解出来なかった。けれど、キラに出会ってカイはひとつ認識を改めた。コーディネイターと言う生き物を誤解していた事に気付いて。
口さがない人々は、まるで汚らわしいものを見るように彼らを化け物、と罵倒するけれど、そんなのは偏ったただの憶測で。実際に近くで観察しているとまるっきり普通だった。それどころか、とても些細な事で笑ったり怒ったりするただの子供のようで。少しだけ年のわりに大人びた表情を湛えてはいたけれど、それはキラの「特殊な事情」とやらの為せる業なのだろう。
フラガから得た情報は、とても少ない。それだけで、キラの事を知ったような気になるのは失礼だし危険だと思った。そのうち話してくれるだろうとフラガは言っていたから、もしかしたら人見知りするのかも知れない。
だいぶ見方が好意的になっているのは、キラがコーディネイターだと知っているから。軍人だと言うのに、少し外に出ただけで日射病で倒れてしまったように、体力のない子供みたいな姿を見ているから。
キラがコーディネイターだと言う事を知っているのは、ごく僅かな人間だけなのだと聞いた。カイがそれを知っていると言う事を、キラは知らない。時折物言いたそうな視線を向けては、すぐに逸らす。そんな事が断続的に続いている。それを問い質そうにも、そんな勇気が自分にない事を知っているから、溜息ばかりを吐いている。
堂々巡りを始めたカイに耳に、遠くから講義終了を告げるチャイムが聞こえて来た。
ダメだなあ、と呟いて、鏡に映った顔に苦笑する。指摘された通りに、酷い顔をしていた。
夏バテと言うのだと、受付けにいた女性は苦笑混じりに教えてくれた。空調の整えられた所に慣れていると、不意に晒された自然の環境に耐え切れなくて、生き物の本能がおかしくなってしまうのだと。
蛇口を捻って、流れ出す冷たい水で顔を洗って、上げた視線の先には、酷く青白い顔をした自分。小さく採られた窓の向こうからは、規則正しい掛け声が聞こえてくる。多分、訓練の時間なのだろう。キラ自身は、一度も参加した事がないし、その必要もないらしい。そんな説明を受けるよりも前に、自分で向いていないことくらい分かっている。参加しろと言われても、こんな顔色では追い返されるのが関の山だ。
洗面所を出ると、不意に話声が聞こえる。楽しそうなものではなくて、どこか一方的な。
「…なんだろ?」
この時間は訓練中で、講義のない教官と事務担当の職員しか残っていない筈なのに。
少しだけ不審感を抱きながらも、声のするほうに近付いて行く。リノリウムの床と、靴底が擦れあって軽く音を立てた。
何人かの背中が視界に入る。キラの執務室の少し手前。近付くに連れて聞こえるのは、明らかに誰かを罵倒しているように聞こえる。背の高い兵士たちの向こう側にいたのは、微かに眉を顰めて俯いた、良く知る顔。
そう歳の変わらない兵士達に囲まれて、カイはただ黙っている。けれど、きつく引き結んだ唇と、固く握られて色を失った両手が、それに対して相当怒りを覚えているのだと覗わせた。
ここで乱闘騒ぎを起こしてもらっても困るんだけど、と妙なところでズレた感想を抱きながら、キラは少しずつ現場に近付いて行く。それに気付いたカイが視線を上げて変に歪んだ表情を見せるのと、溜息混じりにキラが言葉を紡いだのは殆ど同時だった。
「…なに、してるんですか?」
固まっていた兵士達にとって不幸だったのは、キラが制服の上着を着ていなかった事と、コーディネイターだと言う事を知らなかった事だ。
「これはまた、随分な美人さんがおいでだよ。」
一番手前にいた一人が、下品な口笛のオプション付きでそう言って、仲間達と笑い合う。美人、と言う形容詞が自分に向けられたのだと理解した途端に、キラは静かに自分の中でなにかが切れる音を聞いた。
「お嬢さん、ここは迷子センターじゃないから、俺達がいいところまで連れてってやろうか?」
今ここで可愛がってやってもいいぜ、と言ってまた下卑た笑みを張りつかせる兵士達を睨んだキラの瞳から、すうっと光が消えて行く。次いで、綺麗な笑みを浮かべた。
「…ここは廊下で、僕はこの先に用があるんですけど。」
酷く冷たい声だった。顔はふわりと微笑を湛えたまま、冷たい光を宿した瞳は、少しも笑ってはいない。それを見ていたカイは、背筋を氷が滑り落ちて行くような寒気を感じた。
切れると恐い。
フラガは確かにそう言っていた。もしかしたら、今のこの状況は非常にマズイのかも知れない。
「…あの、ヤマト教官…ッ」
作品名:君のいる、世界は08 作家名:綾沙かへる