君のいる、世界は08
言ってしまってから後悔した。この場で一番高い階級を持つのはキラなのだから、最初から階級を付けて呼べば良かった。僅かとは言え、習慣とは恐ろしい。カイの言葉に反応した兵士達は明らかにバカにしたように笑う。
「へェ、教官殿だってよ。」
「半分が下につくには丁度良いお子様じゃないか。」
口々にそう言って笑う彼らは、キラの事を知らない。焦るカイを横目に、彼らはどうせならもっといいこと教えてもらおうか、と言いながらキラに向かって手を伸ばした。
微かに、キラの眉が上がる。
目の前に出された手首を掴んで、唐突に捻り上げた。全く、表情も変えずに。
ちょっかいを掛けたはずが、逆に情けない悲鳴を上げる兵士を、何処にそんな力があるのか不思議に思うほど簡単にリノリウムの床と強引な友好関係を築かせる。仲間の末路を呆然と追っていた他数名は、顔色を変えた。
「…てめェ!」
怒気も顕わに掴み掛かろうとする腕を軽くかわして、キラはカイの隣りに移動する。
「…少し、預かってて下さい。」
片手に持ったままだった上着を押しつけて、一番近距離から伸びてきた腕を軽く掴んで床に叩きつけた。
「…訓練、出ないとダメですよ?」
相変わらず冷たい笑みを張りつかせたまま、キラは軽く身体をかがめる。一瞬後に細い足で強烈な蹴りを相手の腹に叩き込む。蛙が潰れるようなうめき声を残して崩れ落ちた兵士の向こうに、青褪めたのか未だに怒りが抜けないのか、油汗を浮かべた若者が一人、取り残された。
「…ヤマト大尉、そのくらいで。」
いくら先に絡んで来たのが向こうとは言え、基地内での私闘は禁じられている。もっとも、ここでキラが連中を叩きのめしたとしても、それを不当だと訴え出るような度胸もないように見えたし、少しでもプライドが残っていれば出来ないだろう。
まるでそれが専門の教師の動きを見るように滑らかで無駄のないキラを呆然と見ていたカイは慌ててそれだけ言うと、預かっていた上着を差し出した。
「…有り難うございます。」
頬を緩ませてそれを受け取ったキラは、いつもと変わりないように見えた。それでも、床に伸びている誰かを見詰める視線は冷たいまま。
カイの放った言葉に、無事だった一人があからさまに青褪めた。
「…大尉…?」
呆然とそれを繰り返す一人にキラは確信犯的な笑みを投げて、あとはよろしくお願いしますと言って背を向ける。慌ててそれを追いかけたカイは、得体の知れないものを見てしまったような思いで華奢な背中を見詰めている事しか出来なかった。
聞きたい事があるんでしょう?
そう背中越しに声を掛けると、黙って後ろに付いていたカイは弾かれたように顔を上げた。
「…ずっと、そんな顔をしているから。どうぞ、遠慮なく。」
同じ笑顔で。
しばらく視線をさ迷わせてから、カイは思い切ったように口を開く。
「…あの…ッ、ヤマト大尉は、コーディネイターだと…」
ほら、やっぱり。小さくキラは苦笑を零した。どうせ何処から出た情報なのかはすぐに分かる。キラがコーディネイターだと言う事を知っていて、なおかつカイにそれを教えそうな人。
「…フラガ中佐から?」
それ以外の答えなんかないと知りつつも、キラの問い掛けにあっさりと相手は頷いた。
自分でそう白状しながら戸惑ったようなカイに、キラは微笑を返して、自分の執務室の前で立ち止まる。
「…忘れ物、取りに行って来ようかな。」
唐突な呟きに意味が分からないのか、カイはきょとんとしている。
「少し、昔話に付き合ってくれますか。」
振り返ってそう言うと、相変わらず事情の飲み込めない顔をしたまま、カイは頷いた。
ここに来るのは、初めてだ。
出来れば近付きたくないと避けていた格納庫を横切って、方隅にひっそりと存在するエレベーターに乗り込む。あまり利用者がいないのか、ただ単に設置場所の問題なのか、薄く埃が積もった床には黒ずんだ足跡が幾つか残っていた。
教えてもらった通りに階数ボタンの下にあるパネルを外すと、キラは自分のIDカードを滑り込ませ、下から二番目のボタンを押した。がくん、と大きく揺れた箱は、地下に向かって滑る様に落ちて行く。
「…あの、それは…?」
目を丸くして一部始終を見守っていたカイは、遠慮がちに口を開いた。なにも言われなくとも、キラの動作を追っていただけで立ち入りが制限されている場所へと向かっている事くらい分かるのだろう。濃紺の瞳が微かに揺れている。
怒られないから、と言ってキラは笑みを浮かべた。
「心配しなくとも、大丈夫ですよ。…行けば、分かると思います。」
また大きな振動を伴って、エレベーターが止まる。開いた扉の向こう側は、薄暗い通路。床に近い所で灯されたライトが、弱々しく空間を照らしている。カイを促して歩を進めると、静寂の空間に靴音だけが響いた。
そう長くはない通路の正面にある扉の前で立ち止まる。横に設置されたカードリーダーにまたIDカードを滑り込ませ、キラは小さく溜息を付いた。
「地球連合軍、第十三特殊航空部隊、付属航空飛行士養成カレッジ所属、キラ・ヤマト。」
やっぱり長いなあ、と何処か間の抜けた感想を持ちつつも、声紋認証システムの小さなマイクに向かって静かに告げる。場にそぐわず軽い電子音を響かせて、ロックが解除された扉は二人を室内へ招き入れた。
開けた視界の先には、整然とした部屋。まるで基地の中心にある作戦司令室をそっくり移して来たように、設備の整った部屋。必要最低限の照明だけを灯し、けれどそこには全く人影がなかった。
「…なんですか、ここ。」
小さく聞こえた問い掛けに、キラは少しだけ楽しくなって笑った。
「…秘密基地。」
ちょっと信じられない、と言うのが最初の感想だった。
この基地にはもう五年近くいるけれど、こんな施設があったなんて。しかもそこに、当然のようにあっさりと入って行くのは、赴任して間もない上司。まるでこの人の為に作られた施設のようだと、誤解してしまいそうだった。事実、その感想はそう外れてもいない事をカイはすぐに知る事になる。
昔話をしよう、とその人は言った。紡がれた物語は、そう遠い過去のことではなく、カイ自身もはっきりと思い出せるほど最近のものだ。
ほんの少し前、人間は戦争をしていた。
ナチュラルとコーディネイターが争っていた。
たくさんの思惑と、傲慢で愚かな行動の末に、お互いが何もかもを滅ぼすしかないと言い放ったとき、その人々は果敢にもすべてに立ち向かったのだ。僅かな人員と、たった三隻の艦を以って。
誰もが無謀だったと評するその戦いは、絶望の光を消し去り、悪夢の元凶たるボタンを押す指を止め、戦争を終結へと導いた。
最後の最後で、たった一人で悪夢を押し止めたのは、自由を冠するモビルスーツ。
その名は戦争を知る人々の口に時折登り、けれど誰も確認した事はなかった。戦争が終ると同時に、その機体は綺麗に痕跡を残して消えてしまったのだ。
今、この世界に生きる人々の、殆どが知っている物語。
「…続きを。この話の、続きを、あなたには話しておかなくちゃいけない。」
作品名:君のいる、世界は08 作家名:綾沙かへる