君のいる、世界は09
求めているもの。
それはいつでも何かが欠けているような喪失感を伴って。
僕らは、魂を分けあって生まれて来た。
だから、いつでも何かが足りない。
それがなんなのか解らなくて。
時々、酷く不安になる。
そんな気が、する。
秋の終りに、その感覚が訪れた。
それがなんなのかは、分からない。今までも時折感じた不可思議な喪失感。なんの規則性もなく、唐突に訪れて、何時の間にか消えている。
執務室のデスクに頬杖を突いて、目の前に置かれた琥珀色のお茶から立ち昇る白い影をぼんやりと眺める。その隣りで確実に流れて行く時間は、もうじき自分が担当する講義の時間が刻一刻と迫って来ている事を教えてくれる。けれど、全くやる気にならない。
それが仕事で、その為に今ここにいるのだけれど。
「…やだなあ…」
講義の内容は決まっているし、資料も全て揃っている。是非キラでなくとも、事足りる内容の。
溜息と共に零れた言葉に、タイミング良く入ってきた副官は何がですか、と首を傾げた。
ああそうか、とキラは不意に笑みを浮かべた。距離があるとは言え、真っ直ぐに視線を合わせた彼はとてもイヤな予感がする、と極太のマジックで書いてあるような顔をして、それでも律儀にちょっと、と振られた手のひらに応えて近寄って来た。
「突然で済みませんが、次の講義、代理お願い出来ますか。」
資料はこれとこれ、講義内容はここからここまで、と返事も聞かずにさらさらと説明をして、何か質問は、と言った所でようやく目の前の青年は唸るような溜息を吐いた。
「…つまり、サボリですね。」
慣れているのか諦めているのか、余り時間を置かずに返って来た答えはとても的確で。
「体調不良って事で。」
察しが良くて助かります、と言って小さく笑うと、半ば押し付けられたような資料の束を受け取った副官は、明日の夕食期待してます、と呟いた。
デスクの隅に乗っていたアナログな時計が時報を告げる頃、キラの執務室には不在のプレートがさがっていた。
多分、一番近いのは寂しい、と言う感情だ。
それが必ずしも一人でいるときばかりでなく、誰かといても、大好きな人といても不意に認識する感情。
どうしてそう思うのかが分からない。目の前にあるカップの中身をいつまでもぼんやり掻き回して、ベランダ越しに見える赤く色付いた街路樹から力無く引き剥がされて舞って行く枯れ葉を目で追って。
ここは自分の部屋ではないけれど、落ち着く。部屋中に主の気配が残っているから、一人でいても一人だと言う気がしない。いつもならばそれで終ってしまうのに、今は。
「…なんなんだろ。」
この言い知れぬ寂しさは。
知らずに零れた溜息と、携帯端末が知らせる時報がかさなった。部屋の主が仕事を終えて戻る時間が近い。
「少佐に会えば、ちょっとは違うのかなあ?」
独り言を呟きながら薬缶をコンロに掛けて、解凍しておいたパイシートに煮た林檎を乗せ、干しブドウとシナモンを散らしてパイシートで蓋をして、フォークで幾つか穴を開けてから卵黄を塗ってオーブンに入れる。パイを焼く時間は二十分。その間に流しの中でボウルに給湯器から熱めのお湯を張って、カップとティーポットを暖める。
そう言えば今度はミートパイが食べたいとか言ってたな、とぼんやりオーブンの中を眺めていると、薬缶が自己主張を始めた。時計と玄関とを交互に眺めて、フラガの帰る気配がないから沸かしたお湯をポットに移した。
キッチンカウンターからベランダに視線を向けると、先程は見えなかった所にタオルが何枚か寄っていて、風に揺れている。暮れ掛かった夕日の影が長く伸びていて、多分もう冷たいんだろうな、と思いながらもベランダに続くガラス戸を開けると、冬に近付く乾いた風に首を竦めた。
「…もう冬だな…」
何時の間にか時間は流れている。やり直す事は出来ないし、待ってもくれない。
時折寂しくなるのは、強い後悔からだろうか。あの時もっと違う道を選んでいたら、なんて。
「…この季節だからこうなのかなあ…」
取り込んだタオルを抱えながら苦笑を零し、やっぱり冷たいと思いながら遠く高い空を見上げる。
「…なに黄昏てんだ、サボリ魔。」
ベランダの下から急に声がした。聞き覚えのあるその声に視線を空から地上に戻すと、キラは緩やかに笑みを浮かべる。
「…お帰りなさい。」
別にそこまで鈍くはないから、キラがなんだか元気がないことくらい解る。決まってそれは一定のパターンで満ち潮のように押し寄せてきて、気がつくと引いている。その理由が何なのかは良く知らない。キラが話してくれないから解らない。さり気無く話題を振っても、曖昧にはぐらかされてしまう。そういう誤魔化しが、キラは上手いのだ。
だから、またあの時期が来てるなあ、なんてぼんやり観察していた。講義をサボってどこかに引き篭もることだって、実は珍しくない。優遇されているとはいえ職業軍人の自分たちは、呼び出しがかかれば講義中だろうと休暇中だろうと缶詰になったりするのは当然だった。特にキラは、その能力の高さも伴ってよく技術部から呼び出しがかかっていることだって知っている。
けれどここ数日のサボりは個人的なことなんだろうと思った。残してきた両親のこと、親友のこと、良く考えなくともまだ十代の少年なのだから、ホームシックにかかったとしても不思議ではなく。そういうとてもプライベートなところに原因があるのならば、いくら親密な関係であってもそう詮索するべきじゃない。そのくらい弁えているつもりだ。
だから、キラの副官が血相を変えて珍しく自分の執務室に駆け込んできたことについても、そっとしといてやれよ、位で済ませようと思ったのだ。
けれど、とても重要なことを失念していた。自分とキラにとってはそれが当たり前すぎて「普通の家族問題」扱いであっても、深い事情を知らない世間的には、大問題なのだということを。
「…聞いてない、けどなあ…お嬢ちゃんが来るなんて。」
だから彼女が唐突に来たからと言って、自分にとってはそこまで驚くほどのことではなく。それでも彼女の立場を考えれば、そう気軽に遠出したり出来るわけがないというのもよく解るから、余程何か理由があるのだろうとは思ったけれど。
「お嬢ちゃんって…そんな、仮にも国家元首ですよ?」
それを報告に来たのはいつでも半歩下がって夫の影を踏まず、妻の鑑のようにべったりキラに張り付いているカイだ。まさに扉にぶち当たる勢いで入ってきた挙句、デスクの上で正座でもしそうだな、と目の前で慌てているのか驚いているのかよく解らないことを口走る青年をぼんやりと見上げて呟いてみた。そうしたら国家元首、という単語を中点入れて区切ったように返されて苦笑する。
「…うーん、そう言われてもねぇ…しかしなんでまた急に来ることになったんだって?」
どうせキラのところに来たのだから、欠片くらいは事情を聞いているに違いない。心得たように自分の副官がグラスに満たした水を差し出すと、普段は猫かぶりの癖にいつでも熱血直情型のカイはグラスを鷲掴みにして中身を煽った。その律儀な性格からか「有り難うございます」とグラスを返す頃には幾分落ち着いたように見えたところで訊ねてみる。
それはいつでも何かが欠けているような喪失感を伴って。
僕らは、魂を分けあって生まれて来た。
だから、いつでも何かが足りない。
それがなんなのか解らなくて。
時々、酷く不安になる。
そんな気が、する。
秋の終りに、その感覚が訪れた。
それがなんなのかは、分からない。今までも時折感じた不可思議な喪失感。なんの規則性もなく、唐突に訪れて、何時の間にか消えている。
執務室のデスクに頬杖を突いて、目の前に置かれた琥珀色のお茶から立ち昇る白い影をぼんやりと眺める。その隣りで確実に流れて行く時間は、もうじき自分が担当する講義の時間が刻一刻と迫って来ている事を教えてくれる。けれど、全くやる気にならない。
それが仕事で、その為に今ここにいるのだけれど。
「…やだなあ…」
講義の内容は決まっているし、資料も全て揃っている。是非キラでなくとも、事足りる内容の。
溜息と共に零れた言葉に、タイミング良く入ってきた副官は何がですか、と首を傾げた。
ああそうか、とキラは不意に笑みを浮かべた。距離があるとは言え、真っ直ぐに視線を合わせた彼はとてもイヤな予感がする、と極太のマジックで書いてあるような顔をして、それでも律儀にちょっと、と振られた手のひらに応えて近寄って来た。
「突然で済みませんが、次の講義、代理お願い出来ますか。」
資料はこれとこれ、講義内容はここからここまで、と返事も聞かずにさらさらと説明をして、何か質問は、と言った所でようやく目の前の青年は唸るような溜息を吐いた。
「…つまり、サボリですね。」
慣れているのか諦めているのか、余り時間を置かずに返って来た答えはとても的確で。
「体調不良って事で。」
察しが良くて助かります、と言って小さく笑うと、半ば押し付けられたような資料の束を受け取った副官は、明日の夕食期待してます、と呟いた。
デスクの隅に乗っていたアナログな時計が時報を告げる頃、キラの執務室には不在のプレートがさがっていた。
多分、一番近いのは寂しい、と言う感情だ。
それが必ずしも一人でいるときばかりでなく、誰かといても、大好きな人といても不意に認識する感情。
どうしてそう思うのかが分からない。目の前にあるカップの中身をいつまでもぼんやり掻き回して、ベランダ越しに見える赤く色付いた街路樹から力無く引き剥がされて舞って行く枯れ葉を目で追って。
ここは自分の部屋ではないけれど、落ち着く。部屋中に主の気配が残っているから、一人でいても一人だと言う気がしない。いつもならばそれで終ってしまうのに、今は。
「…なんなんだろ。」
この言い知れぬ寂しさは。
知らずに零れた溜息と、携帯端末が知らせる時報がかさなった。部屋の主が仕事を終えて戻る時間が近い。
「少佐に会えば、ちょっとは違うのかなあ?」
独り言を呟きながら薬缶をコンロに掛けて、解凍しておいたパイシートに煮た林檎を乗せ、干しブドウとシナモンを散らしてパイシートで蓋をして、フォークで幾つか穴を開けてから卵黄を塗ってオーブンに入れる。パイを焼く時間は二十分。その間に流しの中でボウルに給湯器から熱めのお湯を張って、カップとティーポットを暖める。
そう言えば今度はミートパイが食べたいとか言ってたな、とぼんやりオーブンの中を眺めていると、薬缶が自己主張を始めた。時計と玄関とを交互に眺めて、フラガの帰る気配がないから沸かしたお湯をポットに移した。
キッチンカウンターからベランダに視線を向けると、先程は見えなかった所にタオルが何枚か寄っていて、風に揺れている。暮れ掛かった夕日の影が長く伸びていて、多分もう冷たいんだろうな、と思いながらもベランダに続くガラス戸を開けると、冬に近付く乾いた風に首を竦めた。
「…もう冬だな…」
何時の間にか時間は流れている。やり直す事は出来ないし、待ってもくれない。
時折寂しくなるのは、強い後悔からだろうか。あの時もっと違う道を選んでいたら、なんて。
「…この季節だからこうなのかなあ…」
取り込んだタオルを抱えながら苦笑を零し、やっぱり冷たいと思いながら遠く高い空を見上げる。
「…なに黄昏てんだ、サボリ魔。」
ベランダの下から急に声がした。聞き覚えのあるその声に視線を空から地上に戻すと、キラは緩やかに笑みを浮かべる。
「…お帰りなさい。」
別にそこまで鈍くはないから、キラがなんだか元気がないことくらい解る。決まってそれは一定のパターンで満ち潮のように押し寄せてきて、気がつくと引いている。その理由が何なのかは良く知らない。キラが話してくれないから解らない。さり気無く話題を振っても、曖昧にはぐらかされてしまう。そういう誤魔化しが、キラは上手いのだ。
だから、またあの時期が来てるなあ、なんてぼんやり観察していた。講義をサボってどこかに引き篭もることだって、実は珍しくない。優遇されているとはいえ職業軍人の自分たちは、呼び出しがかかれば講義中だろうと休暇中だろうと缶詰になったりするのは当然だった。特にキラは、その能力の高さも伴ってよく技術部から呼び出しがかかっていることだって知っている。
けれどここ数日のサボりは個人的なことなんだろうと思った。残してきた両親のこと、親友のこと、良く考えなくともまだ十代の少年なのだから、ホームシックにかかったとしても不思議ではなく。そういうとてもプライベートなところに原因があるのならば、いくら親密な関係であってもそう詮索するべきじゃない。そのくらい弁えているつもりだ。
だから、キラの副官が血相を変えて珍しく自分の執務室に駆け込んできたことについても、そっとしといてやれよ、位で済ませようと思ったのだ。
けれど、とても重要なことを失念していた。自分とキラにとってはそれが当たり前すぎて「普通の家族問題」扱いであっても、深い事情を知らない世間的には、大問題なのだということを。
「…聞いてない、けどなあ…お嬢ちゃんが来るなんて。」
だから彼女が唐突に来たからと言って、自分にとってはそこまで驚くほどのことではなく。それでも彼女の立場を考えれば、そう気軽に遠出したり出来るわけがないというのもよく解るから、余程何か理由があるのだろうとは思ったけれど。
「お嬢ちゃんって…そんな、仮にも国家元首ですよ?」
それを報告に来たのはいつでも半歩下がって夫の影を踏まず、妻の鑑のようにべったりキラに張り付いているカイだ。まさに扉にぶち当たる勢いで入ってきた挙句、デスクの上で正座でもしそうだな、と目の前で慌てているのか驚いているのかよく解らないことを口走る青年をぼんやりと見上げて呟いてみた。そうしたら国家元首、という単語を中点入れて区切ったように返されて苦笑する。
「…うーん、そう言われてもねぇ…しかしなんでまた急に来ることになったんだって?」
どうせキラのところに来たのだから、欠片くらいは事情を聞いているに違いない。心得たように自分の副官がグラスに満たした水を差し出すと、普段は猫かぶりの癖にいつでも熱血直情型のカイはグラスを鷲掴みにして中身を煽った。その律儀な性格からか「有り難うございます」とグラスを返す頃には幾分落ち着いたように見えたところで訊ねてみる。
作品名:君のいる、世界は09 作家名:綾沙かへる