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A Fool

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1.
 会うのは、足を負傷した、あの時以来だ。
 捻挫が完治し、宮廷に出仕しても、顔を合わせることはなかった。時折、遠くから姿を見かけるくらいだった。
 それでよかった。会っても、どんな態度をとればいいのか、鍾会にはまったく見当がつかなかったのだ。療養中も考え続けたが、結論は出なかった。
 鄧艾は、普段と何も変わらないように見えた。もしかしたら、自分が寝台で見た、夢だったのかもしれないとさえ思った。
 しかし、何度思い起こしても、夢ではない。あれは現実だ。夢のように幻惑的ではあったが、現実に起きたことだった。夢だと思い込むには、記憶も、感触も、あまりに生々しい。
 鄧艾に好意を寄せている自分と、それを否定する自分が、常にせめぎ合っていた。古臭い考え方しかできない旧式の軍人。鄧艾に対する鍾会の評価は、以前から変わっていない。
 宮廷で彼の姿を見かけると、心が跳ねあがる。ほんの少し、息苦しいような感覚に陥る。そんな自分を持て余していたが、対処方法は分からない。
 こんなふうに、誰かに執着したことはない。女を知らないわけではないが、心を傾ける相手はいなかった。
 幕舎の前で、躊躇した。重い気持ちのまま、幕を開ける。
 中には、鄧艾が一人で卓に向っていた。顔を上げて、鍾会の姿を認める。
「鍾会殿」
 いつもの、落ち着いた声だった。一人で思い悩んだのが馬鹿らしくなるほど、鄧艾の態度から、鍾会の部屋での記憶は微塵も感じない。
 鄧艾と二人で、辺境の異民族の賊徒の鎮圧を命じられ、この地まで行軍してきた。簡素だが、将校は幕舎を建てることも許された。
 ここは、鄧艾の幕舎だった。卓と、椅子が四脚、水の入った甕、それに、干し草など積んで作った簡単な寝床があるだけだった。山間部の寒い地域だが、部屋に火は入っていない。卓の上には、地図が拡げられている。細かな書き込みがたくさんあった。昨日、鄧艾は数騎を伴って、このあたり一帯を視察していたようだ。自分が見てきた地形についての、注釈を書きこんでいるのだろう。
「また、地図を見ているのですか。あなたも、飽きませんね」
 いつも通りの、声が出せた。それで、鍾会は幾分落ち着くことができた。
「このあたりの地形は複雑だ。たかが賊徒と言えど、相手には地形を知り尽くしているという地の利がある。奇襲などは警戒せねばならん」
 そんなことは、定石中の定石だ。あたりまえのことを、鄧艾は言っているに過ぎない。あたりまえの戦略を口にするところが、鍾会を苛立たせる。
 鄧艾の従者が、椀に入れた湯を持ってきた。鍾会は毛皮のついた套衣を着ているので、それほど寒くないが、鄧艾が気を遣ってくれたことは分かった。
 椅子に腰をおろし、湯をすする。
 一応、軍議だった。
 敵は、馬の扱いに長けた民族だが、戦力や指導者の力量はたいしたことはない。鄧艾の言うとおり、地形を利用した逆落としの奇襲などに用心すれば、討伐が難しい相手ではないだろう。指導者一人の首で終息する、単純なものだ。
「こんな、頭の悪い賊徒相手に、私と鄧艾殿の二人も、必要ないでしょう。私一人でも十分です。司馬昭殿は、何を考えているのやら」
「さあ、司馬昭殿には、司馬昭殿のお考えがあるのだろう」
 作戦について語った。二人の策は、ほとんど違いがなかった。鄧艾が、敵が埋伏しそうな場所を地図で指し示し、その対処について、いくらか話し合った。
 地図を覗き込む鄧艾の横顔が、目の前にあった。
 鄧艾の言葉に合わせて、力強い顎と、薄い唇が動く様を眺めた。つまらない軍議の内容は、耳に入ってこない。
 この唇が。と鍾会は思った。
 本当だろうか、この唇が、自分に
「鍾会殿?」
 鄧艾の訝しげな声で、意識が引き戻された。
「鄧艾殿は、孤児だと聞きましたけど」
 咄嗟に、話題を変えた。話を聞いていなかったとは言えない。鄧艾の顔に見とれていたとは、もっと言えない。
 突然の質問に、鄧艾は鍾会を見つめたまま、しばし無言だったが、やがて表情をゆるめた。
「そうだ。昔、屯田兵として故郷から徴集されてきた。それが、何か?」
 幼いころから一人で、貧しいながら苦学して学問を修めたと、人づてに聞いたことがあった。
 重臣の子として生まれ、何不自由なく育ち、母が金をかけて様々な学者に師事させた鍾会と、まったく別の人生を送ってきたのだろう。父母がいないことも、たった一人で学問に打ち込むことも、貧しい生活も、鍾会には想像ができない。
「家族は、いないのですか」
「故郷に、自分と血縁のあるものが残っているかもしれないが、どうかな」
 言いながら、鄧艾は地図に何やら書き足している。
 鄧艾は、決して流麗ではないが、しっかりとした几帳面な字を書く。朴訥で真面目な、鄧艾そのもののような字だ。
 さびしくないのか、と聞こうとして、やめた。あまりに馬鹿馬鹿しい言葉のような気がしたからだ。
 思いつきで出た質問では、話は広がらなかった。あまり気のきいた話題だとも思えない。もっとましなことを言えばよかった、と後悔した。
 鄧艾の前では、完璧でありたいと思うのに、いつもうまくいかない。鄧艾は、まだ書き込みを続けている。大きな手が動き続けていた。
 軍人としては凡庸で旧式だが、鄧艾はいつも冷静沈着だった。戦場でも、そして今もだ。
 幕舎とはいえ、二人きりになることに鍾会はかなり動揺したが、鄧艾はいつもと何等変わりのない態度で鍾会に接してきた。
 まるで、あのことはなかったかのように。
 あの時。鍾会の屋敷で、唇を寄せてきたのは、鄧艾からだったはずだ。
 なかったこととして忘れたいのか、そもそも彼にとっては大した意味のない戯れだったのか。いずれにしても、鄧艾の中ではどうでもいいことだったのかもしれない。
 鄧艾の動向ひとつに一喜一憂し、赤くなったり、思い悩んだり、緊張したりしている自分が、ひどく滑稽で憐れだった。
 一人で踊っている、愚者だ。
 みじめさが、鍾会に圧し掛かった。これが、戦場や政事の場であれば、もしくは学問であれば、みじめな思いなどしたことがないし、今後もするはずがない。
 鍾会にこんな思いをさせるのは、鄧艾だけだ。
 嫌いなほうが、ずっと楽だ。
 ふと、気配を感じて顔を上げた。鄧艾と、まともに目が合った。なぜか鄧艾のほうが、慌てて目を伏せた。
 ずっと、見られていたのか。みじめさに沈んでいる顔を。
「なんです?」
 見られたくない顔を見られていたと思うと、苛立った声が出た。
「いや、なんでもない」
 呟くように言う鄧艾は、目を逸らしたままだ。
 そのまま何も言わず、鄧艾は卓の上に拡げた地図を、無造作にくるくると丸めた。その拍子に、空の椀が床に落ちた。からからと、乾いた音を立てて転がる。
 足元に転がってきた椀に手を伸ばすと、鄧艾の太い腕がにゅっと伸びてきて、椀を掴んだ。
 視線を上げると、思いがけず近くに鄧艾の顔があり、はっとさせられた。
 鄧艾は屈んだまま、空の椀を見つめている。長い黒髪が、顔を隠していた。
「すまなかった」
 顔を伏せたまま、鄧艾がつぶやいた。
「あんなことを、するつもりはなかった。・・・忘れてくれ」
 あんなこと、が、鍾会と接吻したことを指すのは、分かった。
作品名:A Fool 作家名:いせ