A Fool
鍾会の胸が、すっと冷たくなった。やはり鄧艾は、忘れたいと思っているのか。
「忘れないと言ったら?」
自分は思い悩んでいるのに、鄧艾は忘れて済まそうとしている。意地悪くらい言いたい気分だった。
鄧艾が、顔を上げた。
「鍾会殿」
「あなたは、忘れてしまいたいというんですか。じゃあ、なぜあんなことをしたんです?」
「それは」
鄧艾が、再び目を伏せた。困ったような顔をしている。
この男を困惑させていると思うと、かすかな快感があった。
もっと、困ればいい。いつも冷静で、表情の動かない顔が、困惑で歪むのが見たいと思った。椅子から降り、鄧艾の顔を覗き込む。
「ねえ、なぜ?」
目の前の鄧艾が、視線を向けてきた。これほど近くで顔を見るのは、これで二度目だ。
2.
眼前に、鍾会の白い顔がある。
なぜ、と言われても、答えられなかった。鄧艾にも、分からないからだ。
以前から、この若き天才児は、事あるごとに鄧艾につっかかってきた。名家に生まれ、その才能を早く評価された鍾会が、なぜ自分のような男に敵愾心を持つのか、まったく分からなかった。
確かに自分は農政面で実績を上げ、戦もこなしてはいるが、さほど派手な手柄ではない。鍾会のほうが、よっぽど目立つ功績をあげていた。それなのに、何かにつけて鄧艾を批判し、自分の功績を誇る。才気走った若者のすること、と思える程度のものではあるが、どういうわけか嫌われているらしい、と思っていた。嫌われる理由は、何度考えても分からない。
ある時司馬昭に、あれは嫌っているというより、鄧艾を意識しすぎなだけだと言われた。あいつはまだ子供だから、ああいう態度しか取れないのさ、と司馬昭は苦笑していた。
意識されている、と思うと、腑に落ちることもあった。つっかかってくるだけだが、言葉を交わし、顔を合わせる回数は、他のどの武将や文官より多い。鍾会は、いつも鄧艾の側へ寄ってくるということだ。
それでもやはり、意識される理由は分からない。鄧艾は、彼を避けることも、やり合うこともせず、ただ黙っていた。多少は煩わしいし困惑もさせられるが、嫌いだとは思っていなかったからだ。
いつしか、鄧艾も鍾会の姿を探すようになった。大抵、鄧艾が気づいた時には、すでに鍾会の端正な顔はこちらを見ていた。
あの戦場でも、ほとんど無意識で鍾会の姿を探した。見ないと落ち着かないような気分になるのだ。そのおかげで、人より早く異変に気づくことができた。鄧艾の到着があと少し遅ければ、鍾会の命はなかっただろう。
救出に現れた鄧艾を、鍾会は不思議そうな顔で見た。馬上に引き上げると、鄧艾に体を預けて縋りついた。死ぬことを覚悟していたが、思いがけず助かって力が抜けたのだろう。まるで、父親に甘える子供のようだと思った。
どんなに才能豊かでも、まだ若いのだ。子供を守るような気分で、負傷した鍾会を連れ帰った。
鍾会の屋敷へ見舞ったときは、自分でも何が起きたか分からなかった。いつものようにつっかかってくる鍾会の相手をしていただけだったはずだ。鍾会は、そうすることで、鄧艾に甘えているとも感じた。
鍾会を抱き上げ、寝台に運んだ。鍾会が、じっと自分を見つめていた。女のように、白く柔らかい肌。細い顎に、すっと伸びた鼻梁。うっすらと桃色に上気した頬。きれいな顔だ、と思った。切れ長の瞳は何かを訴えていて、半開きの唇は何かを求めているように感じた。
引き込まれるようにして、顔を近づけた。自分を見つめていた瞳が伏せられた時、すべての思考が飛んだ。
その瞬間のことは、覚えていない。気づいたときには、鍾会の口を吸っていた。乱暴にしてはいけない、とだけはっきりと思い、できるだけやさしく吸った。掌には鍾会の柔らかい髪の感触、頬には、鄧艾の顔を探る鍾会の指の感触があった。鍾会も、控えめだが鄧艾にこたえてきて、鄧艾を驚かせた。細い体を掻き抱き、もっと深く口づけたい欲求が湧きあがってきたことに自分で狼狽し、慌てて体を離した。どうしたらいいのか分からず、動揺したまま無様に逃げ出した。
愚かなことした、と思った。
衝動を、抑えられなかった。こんなことは初めてだ。どうしたら良いのか分からず、いつもと変わらぬ平然とした態度を崩さないことが、自分を保つために思いついた唯一の方法だった。
だが、あの時の光景と感触は、時が経っても頭から消えることはなかった。鍾会を見ると、どきりとする。目を伏せた顔の美しさが、脳裏に甦る。唇を重ねた時の、切ないほど甘い感覚が波紋のように体に広がる。
今しがたも、考え込む鍾会の顔にしばし見とれていた。くせ毛なのか、四方に飛び跳ねる髪は、少し幼い印象を与える。戦場を駆け回っているはずなのに、肌は透けるように白い。形のよい鼻。聡明さがよく表れた眉と瞳。睫毛は女のように長い。彼が美しいことに、今さらのように気付いた。容姿の整った男だとは思っていたが、こんなに見つめたことがなかったのだ。
見つめていることに気付かれ、狼狽した。
今、再び鍾会の白い顔が、目の前にある。愛らしい唇が紡ぐ言葉で、鄧艾を追い詰める。なめらかな白い頬を撫で、首筋から下へ指を滑らせたい欲求がこみあげた。
なぜ、と唇が動く。それはひどく蠱惑的だった。
「自分でも、分からないのだ、鍾会殿」
絞りだすようにして、言った。
「だが、してはならないことを、してしまった」
「それを判断するのは、あなたじゃないでしょう、鄧艾殿」
目を上げて、鍾会を見た。鍾会は、まっすぐに鄧艾の目を見つめている。
手を伸ばせば、白い肌に触れる。そう思った時には、すでに指先は鍾会の頬に届いていた。
鍾会を、体ごと引き寄せる。髪が鼻先に触れた。どうしたらいいか分からず、そのまま鍾会の髪に顔を埋めた。香のような、いい匂いがした。
自分の鼓動が、はっきりと聞こえる。これだけ大きく脈打てば、鍾会にも聞こえているだろう。
「鍾会殿」
髪から、額に唇を移動させながら、囁いた。
「口を、吸ってもいいか」
鍾会が、目を細めた。
「・・・いいですよ」
鍾会の声が、小さく聞こえた。
甘く柔らかいものが、唇に触れる。胸が高鳴った。
鍾会の足にぶつかった椀が、からからと音を立てて転がっていった。