狂い咲き
紀乃介が俺を抱きしめている、という普段ではありえない状況に頭が混乱してしまう。心臓が早鐘を拍って止まらない。紀乃介に聞こえているだろうと思うと、急に恥ずかしくなった。何か言葉を発しないと、恥ずかしさでどうにかなりそうだ。
「き、紀乃介? どないしたんや、気分悪くなったんか?」
「気分が悪いのは貴方の方でしょう。見ていられません」
俺の胸に顔を埋めたまま喋るから、もごもごとこそばゆい。口から言葉が出るたびに、紀乃介の息がかかって変な感じだ。
「弥九郎らしくありませんよ。……先日まで仲間だった人達が今日にはもう敵になっている。それは私とて辛いです。しかし、其れに狼狽え己を失うとは、愚かです」
いつも通りの厳しい言葉に、俺は苦笑するしかない。そして、紀乃介はゆっくりと頭を上げ、
「私はここにいます。ずっと、弥九郎の傍にいます。それでも不安ですか?」
顔を逸らすことができない。
「私は不安になったことなど一度もありません。私は、弥九郎たちを信じていますから」
そこまで言って、抱きしめる力が強くなった。案ずるな、自分たちを信じろ、というふうに。そう。俺は何を焦っていたのだろう。この温もりは確かなものなのに。
俺は紀乃介の背中を抱きしめ返した。言葉は要らないと思ったから。感謝の言葉を心の中だけで何度も呟く。ありがとう、ありがとうきのすけ、ありがとう、だいすきだよ、きのすけ。だいすき。
一頻り抱き締めたあと、惜しむようにゆっくり離すと、見つめ合う形になった。見えていないはずの瞳に、自分の顔がはっきりと映っている。確かに、はっきりと。紀乃介が何も言わないので、恐る恐る顔を近づけてみた。ら。
ぱちん!
「いってええぇぇぇ……っ!!!」
「なに調子のってるんですか」
叩かれた。頬がじんじんと痛む。この尋常ではない痛さだと、頬に赤く手形がついているに違いない! その華奢な腕のどこからそんな力が。不覚にも、あまりの痛さに涙目になってしまった。
「あ、あんまりや! 接吻くらいええやないかー! さっきの言葉は何やったん?」
「黙りなさい痴れ者。私は傍にいるとは言いましたが、恋仲になるとは言ってません」
冷たく言い放つと、ふいっと背を向けて歩き出してしまった。慌てて追いかける。
「なあー、紀乃介ぇー」
呼びかけても返事がない。怒っているのか。
「機嫌直してや。な、俺が悪かったって」
それでも無言ですたすたと歩き続ける紀乃介。うむ、仕方ないな。
「あーあ。久々に甘味買うてやろうと思うたのになあ」
俺はわざと大袈裟に溜め息を吐きながら言った。紀乃介は予想通り、ぴくっと反応して足を止めた。それでも何も言わなかった。だが、布の間からわずかに見える表情で分かる。言動は冷静で大人びた紀乃介だが、どこか抜けていて可愛い奴だ。
俺は思わず笑ってしまいながら、甘味処へと再び歩き出した。
「笑わないでください」
紀乃介が俺の後に続く。
嗚呼、ひどく平和な気分だ。あとどのくらい、こんな時を過ごせるのだろう。
心のどこかで解ってはいる。きっと負け戦だ。冷静で賢い紀乃介だから、それを解っていて、だからこそ最後まで迷ったのだろう。
それでも俺達は、己が信念を貫くため。
いつか訪れるその日までは、この、傍に在るぬくもりを信じていよう。
(まるで、狂い咲き)