狂い咲き
「弥九郎」
いつものように道端をぶらついていると、背後から聞き慣れた声に呼ばれた。
「何や、紀乃介?」
「何や、じゃないですよ。そちらこそ何を?」
「見りゃあ分かるやろ、散歩や散歩」
振り返りつつ言って、そして後悔した。紀乃介の目は、もう見えていない。
「すまん……見られへんのやった……」
けれど紀乃介は、何を変なこと言う、という風に笑った。
「目のこと、いちいち気にしないでくださいよ。それより、こんな大変なときに散歩ですか? 遅かれ早かれ戦は必ず起こるだろうと、弥九郎も感じているでしょうに」
「分かっとるよ」
本当は何も分かってないくせに、と心の中で苦笑する。こうやって青空を見上げて、逃げてるだけじゃないか。でもそうでもしなければ、やりきれない。俺は、高く澄んではいないのだよ、たまにはこうなったっていいじゃないか。
二人とも黙ってしまった。けれど嫌ではない。紀乃介と一緒のときの沈黙は、むしろ心地よいものだった。なんとなく、紀乃介の手を握ってみると、心なしか冷たくなっていた。
さすって温めてやろうと思ったとき、少し強めの風が道草のあいだを吹き抜けた。すると紀乃介は「あ、」と小さく呟いて、道の脇まで駆けていってしまったので、それに俺も続いた。
そこには、この寒空には不似合いな、黄色くて可愛らしい花が咲いていた。紀乃介の掌が、感触を確かめるように、そっと、その野花に触れる。細く白い指の間でちらちらと、あたたかな黄色が見え隠れした。
「たんぽぽですね」
「そうみたいやな。でも、こんな時期に……珍しい。桜の狂い咲きとかは良う聞くけど、たんぽぽは初めてやで」
きっと、春には、道の両端に黄色い花びらが、ふわふわと整列していることだろう。けれど今はよく注意してみないと気づかない程度にしか咲いていない。
「にしても、よう見つけられたなあ」
「匂いですよ」
「匂い? たんぽぽって、そんなに匂うか?」
「北風の中に、春らしい温かい香りが混ざっていたので。不自然に思ったんです」
紀乃介は繊細な指先で、花をいじったまま言った。
「視覚がなくなってから、ほかの色々なことに敏感になりました」
す、と頬にひんやりとしたものが触れた。先ほどまでたんぽぽに触れていた紀乃介の手だ。紀乃介が何を言いたいのか分かったから、俺はその小さなの手の甲に自分の掌を重ねた。
「俺は大丈夫やで。ちょっと滅入ってるだけや。心配せんでもええって」
そして紀乃介の手を、ぎゅうと握りしめた。紀乃介は少し何か考えているようだったが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「……弥九郎の手は温かいですね」
とくん、と胸が高鳴ったのがはっきり分かった。
ちょっと褒められたくらいで、こんなに嬉しいだなんて。ほんとうに心底惚れている。まるで、恋を知ったばかりの生娘みたいだ。大声でこの気持ちを叫びたい、そして抱きしめたい。そんな衝動に駆られる。でも、きっと、いつものように軽くあしらわれるだけだろう。
俺が色々と思いを巡らせているのを知ってか知らずか、紀乃介は言葉を続けた。
「たんぽぽと同じです。春の日差しのような温かさ」
「えっ」
意外な言葉に不意を突かれ、握りしめた手を解いてしまった。
というのも、俺はこの狂い咲きのたんぽぽを……まるで佐吉のようだと思っていたからだ。この凍えた空の下、周囲は枯れ、朽ちてゆく中で、唯一色彩を放つ花。
佐吉は今、義をもってこの枯れ野原を春色に変えようとしているのだ。だが俺はどうだろう。もちろん利に負け腐るつもりはない。が、今のこの状態……俺はあまりの寒さに震え、霜雪に埋もれてしまっているというのに。
霜雪といえば。上杉家も佐吉の味方をしてくれるらしい。佐吉と兼続殿は古くからの知り合いで、とても気が合うようだった。亡き謙信公の性格が似たのか、兼続殿も義を重んずる今時珍しい武将で、それに賢い。あの二人が力を合わせ、家康相手に挙兵するのだというのだから、今までにない大きな戦になるだろう。今は雪の為に戦の準備を休止しているらしいが、雪が解ければ着々と計画は進んでゆく。戦がはじまる。この狂い咲きのたんぽぽは、そのことを暗示しているように思えて仕方がないのだ。
「俺は……むしろ、佐吉のようやと思うたんやけどな。そのたんぽぽ」
少し俯き加減になって言った。すると紀乃介は、ふ、と小さく吹き出した。
「このたんぽぽが佐吉ですか? 佐吉はこんな優しい色じゃないですよ。もっと、こう――激しい――そうですね、彼岸花のようだと、私はいつも思うのですが」
なるほど彼岸花か。派手な朱という色でありながら飾り気がなく、細長く緩やかな花弁が凛とした雰囲気を漂わせる、どこか危うげな花。彼岸の頃に咲き、まるで故人をしのぶように咲く花。その花の根には、毒があるという……言われてみれば、佐吉に似合いの花だ。
「弥九郎。此度の戦をどうするべきか、正直かなり迷いました。けれど結局私は……佐吉に力を貸すことに決めた。決めたからには、全力を尽くしましょう。佐吉の為にも、自分たちのためにも」
「あたりまえや! 正義は必ず勝つんやからっ」
おどけて言ったつもりだったが、自分でも驚くほど声は震え、語尾は小さくなってしまった。どうしたというのだろう。こんな、らしくない自分は初めてだ。ここ最近ずっと……自分でも良く分からない。
声が掠れてしまったことに狼狽していると、ふわっと温かい何かに包まれた。それこそ春の日差しを浴びたような――自然と心が落ち着く、それ。ほんの刹那の間安堵したあと、はっと気づいた。
紀乃介だ。