6月の大気
雨がシトシトと降る中で、僕はじっとアジサイの花を睨みつけていた―――
空気が湿気を孕み、土は雨水にぬかるんで、よっぽどの用事がなければ外に出る者など、誰もいなかった。
雨の放課後なんてみんな、寮の談話室で下らない冗談に笑ったり、お菓子を食べたり、図書館で本を読んでいるのが当たり前の過ごし方だった。
そんなときに、君から呼び出しのメッセージが久しぶりに届いたんだ。
僕は傘を持つと急いで中庭へと走り、指定されたベンチへと向う。
君はもうそこに先に着いていて、広げた傘の中で雨に濡れている木々の緑を見ていた。
「やあ、遅くなってゴメン」
声をかけるとやっと僕に気付き、軽く口元を緩めると首を振る。
「別にいいよ」
「話があるんだって?」
頷くだけで後の言葉が続かない君は、また俯いてしまい、表情が傘の中に隠れてしまった。
僕はそのプラチナの髪の毛を見詰めながら、「えっと……」と呟き、視線を辺りにさ迷わせる。
目の前の白いベンチは雨に濡れて座ることが出来なくて、この近くには屋根つきのガゼボもなかった。
「座ったり、雨宿りする場所もここにはないね。……どうしょうか、どこか別の場所にでも行く?」
そう言っても君は顔を上げない。
ただ雨粒ばかりが互いの傘にパラパラと落ちてきて、水滴のカーテンが僕たちを覆っていくようだ。
君は俯いたままで、じっと立ち尽くしている。
彼の肩は大人に近いそれで、少しルーズに伸ばし気味だった癖のない髪の毛は、しばらく会わない間に、短くきっちりと切りそろえられていた。
それはそれで、君にすごく似合っていたけれど、見慣れない横顔になんだか胸がつかえてしまった。
僕は何かを振り払うように、何度も瞬きをする。
こんな雨の中なのにどこかで小鳥のさえずる声がかすかに響いてきた。
雨が少し激しくなり、足元の水溜りに滴の波紋がたくさん広がっていく。
……僕たちが付き合いだした頃は、まだ僕も君も成長期の途中で、「背が5インチも伸びた」と威張ったら、すぐに君に追い越されて、僕が不貞腐れると、君は「人を見下ろすなんて、中々気分がいいものだな」とからかって笑った。
くったくのない笑顔で、僕たちは何度もキスをした。
廊下の突き当たりの窓辺で消灯後に落ち合い、互いの腕の中で美しい月を眺めていた。
雪の中の散歩は、君の手を無条件に握れることが嬉しかったけれど、すぐに足先がジンジン痺れて苦手だった。
すれちがうときに、二人にしか分からない言葉を耳元に囁き小さく笑ったり、授業中に本を落としたふりで、後ろに座っている君にじゃれるように、ウィンクしたこともあった。
君に会うことが出来ない長い休暇が僕は大嫌いだった。
クィディッチの試合では別寮の僕たちはいつも敵どうしで、負けん気の強い君が悔し泣きするのを抱きしめて、慰めるのは僕の役目だった。
クリスマスに照れたような顔でプレゼントをくれたのは君だったし、僕がひどく傷つく言葉を探すのが得意なのも君だったし、逆に痺れて倒れそうになるほど、嬉しい言葉を甘く囁いてくれるのも君だった。
―――みんな、みんな、僕のすべてが君だったのに……
最終学年に進むと、僕は君より一回りくらい体が成長して、君はめったに笑うことがなくなり、細い首筋で俯き、無口になってしまった。
廊下で出合っても、よそよそしい態度で僕の隣を通り過ぎ、出した手紙に君からの返事がほとんど届かず、深夜のデートの約束も、何度もすっぽかされてしまった。
夏は寒くて、冬は凍えそうだった。
春はただ過ぎ去り、今は初夏で、もうすぐ僕たちは……
「ごめん……。君のことが好きだったけど、すまない」
傘の柄をしっかりと握りしめて、君はポツリと言った。
僕は聞こえないフリをしたくて、空を見上げる。
……ああ、なんでこんな話をするときに限って、雨なんか降るんだよ、まったく。
似合いすぎて、都合がよすぎて、まるで下手なドラマみたいだ。
「好きだった」って何だよ?
どういう意味だよ?
やっと聞いた君からの「好き」という言葉が、過去形の最後の言葉なんて、いったいどういう皮肉なんだよ?
運命とかいうヤツを呪っちゃいそうだ。
君の傘を持つ手が小さく震えているのが分かった。
どうして、君が頑なに顔を上げないのかも分かった。
こんな卒業が近い雨の日を選んで、君が僕を呼び出したのも分かった。
もうかなしくて、すべてが、かなしくて、どうにかなりそうだ。
6月はちっともキレイな季節じゃない。
6月は幸せな季節じゃない。
雨の中のアジサイを僕は睨みつける。
僕たちのこれからの別れていく運命を睨みつける。
このどうしょうもない世界を睨みつける。
―――幸せだったのはいつ?
―――あの輝くようだった季節はいつだったのか?
もうすぐしたら、このベンチの後ろにあるアーチに絡まっている野ばらの蕾が、一斉に開くだろう。
7月の青く澄んだ空に向かってローズピンクの花は咲き、甘い香りが漂っても、この場所に僕たちはいない。
―――どこにもいない。
僕たちが出会い、笑いあったこの場所に、もう僕たちはいない。
お互いがそれぞれ別の場所にいて、別々に暮らしているんだ。
そう思っただけで堪らず、持っていた傘を手放すと君に抱きついた。
弾みで君の手から離れた傘も、風に舞うようにゆっくりと揺れて、ぬかるんだ水溜りに落ちていく。
驚いたように見上げる君の瞳は濡れてなくて、そこに君の決意の深さを知る。
「いやだ……。僕はイヤだ。絶対にいやだ」
まるで駄々をこねるように否定の言葉を繰り返した。
「――イヤだ……」
抱きしめると君も同じように抱きしめ返してくる。
そして言った。
「ごめん……」と―――
「謝らないでよ、お願いだから」
僕は傷つき悲痛な声を上げて、君の胸元で叫ぶ。
雨粒が自分のほほをいく筋も伝い落ちていく。
「ごめん」
また君が言って、僕は首を横に何度も振った。
悲しみで胸はつぶれそうになり、涙が溢れて、そのほほに雨の滴が混じって流れていく。
―――なぜ君がこの雨の日に別れを告げたのか本当の意味を知った。
「……最後の最後で、僕に優しくするなんてひどいよ。嫌味で皮肉屋の負けず嫌いの君でなきゃ、僕はイヤだよ。優しくなんかしないでよ」
『君がもっとやさしかったらいいのに』と思っていたけれど、実際に訪れた憧れの瞬間が今だなんて……
「……君は僕のことを忘れるの?」
君は僕の耳元に顔を寄せるとぎゅっと抱きしめながら囁く。
「忘れないさ。忘れる訳ないだろ。君は僕の大切なものだ」
「ひどいな……。こんな悲しい場面で、そんな嬉しいことを言うなんて」
問い詰めるとまた君は「ゴメン」と謝った。
どんなに言葉で挑発しても、昔のように君は突っかかってこない。
「僕といっしょにどこか遠くに逃げることは出来ないの?僕もみんな捨てるから、君もいっしょに……」
君はただ首を振る。
「無理だ。僕たちはもう何も分からない訳じゃないんだし、自分の立場や責任をちゃんと理解しているんだろ?それを捨てるなんて、無責任なことは出来ない。お互いに子どもじゃないんだ」
君の言葉は正論すぎて、僕は俯き黙り込んでしまった。
空気が湿気を孕み、土は雨水にぬかるんで、よっぽどの用事がなければ外に出る者など、誰もいなかった。
雨の放課後なんてみんな、寮の談話室で下らない冗談に笑ったり、お菓子を食べたり、図書館で本を読んでいるのが当たり前の過ごし方だった。
そんなときに、君から呼び出しのメッセージが久しぶりに届いたんだ。
僕は傘を持つと急いで中庭へと走り、指定されたベンチへと向う。
君はもうそこに先に着いていて、広げた傘の中で雨に濡れている木々の緑を見ていた。
「やあ、遅くなってゴメン」
声をかけるとやっと僕に気付き、軽く口元を緩めると首を振る。
「別にいいよ」
「話があるんだって?」
頷くだけで後の言葉が続かない君は、また俯いてしまい、表情が傘の中に隠れてしまった。
僕はそのプラチナの髪の毛を見詰めながら、「えっと……」と呟き、視線を辺りにさ迷わせる。
目の前の白いベンチは雨に濡れて座ることが出来なくて、この近くには屋根つきのガゼボもなかった。
「座ったり、雨宿りする場所もここにはないね。……どうしょうか、どこか別の場所にでも行く?」
そう言っても君は顔を上げない。
ただ雨粒ばかりが互いの傘にパラパラと落ちてきて、水滴のカーテンが僕たちを覆っていくようだ。
君は俯いたままで、じっと立ち尽くしている。
彼の肩は大人に近いそれで、少しルーズに伸ばし気味だった癖のない髪の毛は、しばらく会わない間に、短くきっちりと切りそろえられていた。
それはそれで、君にすごく似合っていたけれど、見慣れない横顔になんだか胸がつかえてしまった。
僕は何かを振り払うように、何度も瞬きをする。
こんな雨の中なのにどこかで小鳥のさえずる声がかすかに響いてきた。
雨が少し激しくなり、足元の水溜りに滴の波紋がたくさん広がっていく。
……僕たちが付き合いだした頃は、まだ僕も君も成長期の途中で、「背が5インチも伸びた」と威張ったら、すぐに君に追い越されて、僕が不貞腐れると、君は「人を見下ろすなんて、中々気分がいいものだな」とからかって笑った。
くったくのない笑顔で、僕たちは何度もキスをした。
廊下の突き当たりの窓辺で消灯後に落ち合い、互いの腕の中で美しい月を眺めていた。
雪の中の散歩は、君の手を無条件に握れることが嬉しかったけれど、すぐに足先がジンジン痺れて苦手だった。
すれちがうときに、二人にしか分からない言葉を耳元に囁き小さく笑ったり、授業中に本を落としたふりで、後ろに座っている君にじゃれるように、ウィンクしたこともあった。
君に会うことが出来ない長い休暇が僕は大嫌いだった。
クィディッチの試合では別寮の僕たちはいつも敵どうしで、負けん気の強い君が悔し泣きするのを抱きしめて、慰めるのは僕の役目だった。
クリスマスに照れたような顔でプレゼントをくれたのは君だったし、僕がひどく傷つく言葉を探すのが得意なのも君だったし、逆に痺れて倒れそうになるほど、嬉しい言葉を甘く囁いてくれるのも君だった。
―――みんな、みんな、僕のすべてが君だったのに……
最終学年に進むと、僕は君より一回りくらい体が成長して、君はめったに笑うことがなくなり、細い首筋で俯き、無口になってしまった。
廊下で出合っても、よそよそしい態度で僕の隣を通り過ぎ、出した手紙に君からの返事がほとんど届かず、深夜のデートの約束も、何度もすっぽかされてしまった。
夏は寒くて、冬は凍えそうだった。
春はただ過ぎ去り、今は初夏で、もうすぐ僕たちは……
「ごめん……。君のことが好きだったけど、すまない」
傘の柄をしっかりと握りしめて、君はポツリと言った。
僕は聞こえないフリをしたくて、空を見上げる。
……ああ、なんでこんな話をするときに限って、雨なんか降るんだよ、まったく。
似合いすぎて、都合がよすぎて、まるで下手なドラマみたいだ。
「好きだった」って何だよ?
どういう意味だよ?
やっと聞いた君からの「好き」という言葉が、過去形の最後の言葉なんて、いったいどういう皮肉なんだよ?
運命とかいうヤツを呪っちゃいそうだ。
君の傘を持つ手が小さく震えているのが分かった。
どうして、君が頑なに顔を上げないのかも分かった。
こんな卒業が近い雨の日を選んで、君が僕を呼び出したのも分かった。
もうかなしくて、すべてが、かなしくて、どうにかなりそうだ。
6月はちっともキレイな季節じゃない。
6月は幸せな季節じゃない。
雨の中のアジサイを僕は睨みつける。
僕たちのこれからの別れていく運命を睨みつける。
このどうしょうもない世界を睨みつける。
―――幸せだったのはいつ?
―――あの輝くようだった季節はいつだったのか?
もうすぐしたら、このベンチの後ろにあるアーチに絡まっている野ばらの蕾が、一斉に開くだろう。
7月の青く澄んだ空に向かってローズピンクの花は咲き、甘い香りが漂っても、この場所に僕たちはいない。
―――どこにもいない。
僕たちが出会い、笑いあったこの場所に、もう僕たちはいない。
お互いがそれぞれ別の場所にいて、別々に暮らしているんだ。
そう思っただけで堪らず、持っていた傘を手放すと君に抱きついた。
弾みで君の手から離れた傘も、風に舞うようにゆっくりと揺れて、ぬかるんだ水溜りに落ちていく。
驚いたように見上げる君の瞳は濡れてなくて、そこに君の決意の深さを知る。
「いやだ……。僕はイヤだ。絶対にいやだ」
まるで駄々をこねるように否定の言葉を繰り返した。
「――イヤだ……」
抱きしめると君も同じように抱きしめ返してくる。
そして言った。
「ごめん……」と―――
「謝らないでよ、お願いだから」
僕は傷つき悲痛な声を上げて、君の胸元で叫ぶ。
雨粒が自分のほほをいく筋も伝い落ちていく。
「ごめん」
また君が言って、僕は首を横に何度も振った。
悲しみで胸はつぶれそうになり、涙が溢れて、そのほほに雨の滴が混じって流れていく。
―――なぜ君がこの雨の日に別れを告げたのか本当の意味を知った。
「……最後の最後で、僕に優しくするなんてひどいよ。嫌味で皮肉屋の負けず嫌いの君でなきゃ、僕はイヤだよ。優しくなんかしないでよ」
『君がもっとやさしかったらいいのに』と思っていたけれど、実際に訪れた憧れの瞬間が今だなんて……
「……君は僕のことを忘れるの?」
君は僕の耳元に顔を寄せるとぎゅっと抱きしめながら囁く。
「忘れないさ。忘れる訳ないだろ。君は僕の大切なものだ」
「ひどいな……。こんな悲しい場面で、そんな嬉しいことを言うなんて」
問い詰めるとまた君は「ゴメン」と謝った。
どんなに言葉で挑発しても、昔のように君は突っかかってこない。
「僕といっしょにどこか遠くに逃げることは出来ないの?僕もみんな捨てるから、君もいっしょに……」
君はただ首を振る。
「無理だ。僕たちはもう何も分からない訳じゃないんだし、自分の立場や責任をちゃんと理解しているんだろ?それを捨てるなんて、無責任なことは出来ない。お互いに子どもじゃないんだ」
君の言葉は正論すぎて、僕は俯き黙り込んでしまった。