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あじさいとこんぺいとう

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紫陽花には思い出がある。

 雨に濡れて色味を増した花を見つめて、綱吉は小さくため息をこぼした。
 まだ、今よりもずっと小さかった頃。紫陽花の花が自分の身長よりも大きかった時分のことだ。
 葉の上に乗っているカタツムリの数を数えているうちに奈々とはぐれ、綱吉は紫陽花の咲く庭園の中で一人、迷子になった。
 それがどこだったのかは、もう覚えていない。
 どこまでも延々と続く紫陽花に囲まれた空間は、最初とても人が多かったから、鎌倉かどこかの観光地だったのかもしれない。
 けれど、自分がいつの間にか奈々と離れ離れになっていると気付いたのは、どこをどう通ったのか、誰もいない、どこかひっそりと静謐な場所で声をかけられてからだった。



「こんな所でなにをしているの?」
 子ども特有の高い声はしかし、押さえられたトーンのためかとても落ち着いた響きをしていた。
 綱吉はびくりと肩を揺らすと、じっと見つめていたカタツムリから目を離し、振り返る。
「あ……」
 そこに立っていたのは、綱吉より一つ二つ年かさらしい少年だった。
 黒い半ズボンをサスペンダーで吊って、白いシャツにリボンタイを結んだ上品な出で立ち。雨の中だというのに、白いソックスには一点の染みもない。
 傘を持つ手は真っ白で、もう片方の手に白い紙袋を提げている。
 保育園で一番可愛いと言われている少女よりもずっと――――比ぶべくもなく整った面立ちに、綱吉はぽかんと小さな口を開いたまま固まってしまった。
「なにを、しているの?」
 再びそう訊いた唇はほんのりと赤く、まっすぐに見つめてくる瞳と、雨の中だというのにさらりとした質感の髪は、夜のように静かな黒。
 綱吉は引っ込み思案で、人見知りをする性質だったけれど、その視線の強さに捕らわれたように目が逸らせなかった。
「聞こえないの?」
 少年はそう言いながら、ゆっくりと綱吉に近づいてくる。
 黄色いレインコートのフードの中に隠れた顔を覗きこむようにされて、綱吉はぱちぱちと大きな目を瞬いた。
 それからようやく、その言葉が自分に向けられていたこと、そして質問の意味を理解する。
「でんでんむし……」
「でんでんむし?」
 小首を傾げた相手に、綱吉はこくんと頷いて、葉の上を指差した。
「――ああ。カタツムリか」
「かた……?」
 その言葉に聞き覚えがある気がして、綱吉は少年が傾げたのとは逆のほうへ小さく首を傾げる。
「そんなの見てて楽しいの?」
「うん……」
 少年の言葉に一応は頷いたものの、頭の中は『カタツムリ』で一杯になっている。
 その言葉は確かにどこかで耳にしたことがあった。
 どこで?
 うんうんと、小さな頭を悩ませて、やがて綱吉は答えを見つけた。
「あ! おうた!」
「歌?」
 少年はむぅと黙り込んだままだった綱吉が、突然そう叫んだことにその秀麗な眉を顰める。
「うーとね、でーんでんむーしむーしかぁたつーむりー……」
 その上、綱吉が突然歌を歌い出したことに驚いたように目を瞠る。
 もちろん、歌を歌うことに必死になっている綱吉には、そんなことに気付くような余裕はない。
「どーこに、あーるぅ」
「…………」
 少年の胡乱気な視線を浴びたまま、調子の外れた歌を歌う。
 やがて。
「あたまーだせぇ」
 やり遂げた、というようにふうと息をついた綱吉に、少年も思わず小さな笑みを浮かべていた。その歌があまりにも下手だったせいである。
 けれど、綱吉はその笑顔が、いつも歌い終わると『上手ね』と褒めてくれる奈々が浮かべているそれと、同じ質のものだと信じて疑わなかった。
 綺麗な顔がほころんだことに、どこか誇らしいような気持ちで、綱吉もようやく「えへへ」と微笑む。
 一生懸命歌ったせいで上気した頬に浮かぶ、キラキラと光がこぼれるような笑顔に、少年はしばし無言で綱吉を見つめると「ふうん」となにか納得したような相槌を打った。
「キミ、どこから来たの?」
「う?」
 綱吉はきょとんとした顔で、少年の顔を見上げる。
 どこから?
「おうち」
「…………」
「でんしゃにのったの。ごとごとっていってたよ」
 少年の呆れたような顔には気付かず、そう続ける。
 眠っている間に、電車は目的地についたらしく、降りた記憶はなかった。
 そして、奈々に手を引かれて……。
「あ」
「どうしたの?」
 そこまで思い出して、綱吉はようやく母親が傍にいないことに気がついた。
 きょろりと辺りを見回したが、やはりその姿はどこにもない。
 そのことを理解した途端、その大きな瞳が見開かれ……。
「ふぇぇぇぇん」
「っ……ちょっと、なに?」
 今度は突然泣き出した綱吉に、少年は驚いたように目を瞠り、ついで、うろたえた自分をごまかすように顔を顰めた。
「おっ……」
「お?」
「おっ…かぁさ……っいないぃぃぃ…っ」
 ひくひくとしゃくりあげる綱吉の口から、ようやく意味のある言葉が紡がれる。
「なに? 母親と来たの?」
 どこか落胆したような声色でそういった少年に、ぐしぐしと泣き続けたまま綱吉は頷いた。
「お、はな…っ……みようっ…って」
 その言葉に、少年は小さくため息をこぼす。
「カタツムリに気を取られて迷子になったの?」
「ふ…っ…ふぇっ……」
 迷子、という単語に綱吉はますます心細くなり、ついにはその場にしゃがみこんでしまった。
 ぽろぽろこぼれる涙を拭うことも忘れて、ただ泣き続ける。
 そんな綱吉の頬にひやりとした物が触れた。
「っ……」
「そんなに泣かないの」
 少年の白い指が、綱吉の頬をこぼれる雫を拭う。
 いつの間にか少年もまた、綱吉と視線を合わせるようにしゃがみこんでいた。
 指が頬に触れるたび、少年の腕にかけられた紙袋がかさかさと音を立てる。
「ああ、そうだ」
 少年は不意に思いだしたというように声を上げ、綱吉の頬から指を離すと、その袋を広げた。
「ほら、見てみなよ」
 促す声と仕草に、綱吉はまだ涙の溜まった瞳で、袋の中を覗きこむ。
「あっ」
 白い袋の底には紫陽花が入っていた。けれど周りに咲き誇るものよりもずっと小ぶりで、可愛らしい。
 おもちゃのようにも見えるそれを、綱吉はじっと見つめたあと顔を上げて少年を見つめた。
「おはな。おにいちゃんがつんだの?」
 泣いていたことも忘れて首を傾げた綱吉に、少年は首を振り、綱吉に立つよう促した。
「これはお菓子だよ」
「おかし?」
「そう。ここじゃ濡れてしまうから、別のところで食べさせてあげるよ。ほら、こっち」
 綱吉のぷくりとした手を、少年の白くひやりとした手が摑み、綱吉はその手に引かれるままに、とてとてと少年のあとをついて歩く。
 自分が迷子であることなどすでに頭の片隅に追いやられ、先ほど見た綺麗な花のような菓子のことでいっぱいだった。
 当然、常日頃奈々に言われている『お菓子をあげるって言われても、知らない人についてっちゃだめよ』なんて言葉は、浮かんできさえしない。
 やがて、紫陽花に囲まれた東屋へと辿り着くと、少年は身長の足りない綱吉がその石造りのベンチに上がるのを手助けし、綱吉の頭から黄色いフードを外したあと、自らも横へと座った。
作品名:あじさいとこんぺいとう 作家名:|ω・)