さようならと告げる鳥の聲が聴こえる
あの約束――三年前、婚儀の夜に指切りをした、あの約束のことだ。
「何があっても、決して」
「……うん、分かってます」
念を押され、深く頷いてみせる。
あとは二人で、眼下に歩み行く軍勢の姿を眺めながら、静かに時を待った。
やがて泰衡が立つときが来た。銀が大社の階上までやって来て、そろそろ出立のご準備を、と泰衡を促した。ああ、と短く頷いた夫の横顔に目を向ける。銀が先導するように先を行く。泰衡は一歩を踏み出し、それから数歩を先へ進んだが、長い階の初めの一段に足をかけようとしたとき、ふと立ち止まった。そして望美を振り返る。
「泣くことはないと、何度も申し上げたのだが」
彼にはすっかり見抜かれている。その背を、追うことなく呼び止めることなく、ただ泣くならばここで静かにそうしようと思っていたというのに、彼が背を向け歩き出した途端に零れ始めた涙の音を聞いたかのように、泰衡はこちらを見るのだ。知られないよう、困らせないよう、泣くなら一人でそうしようと思っていたのに、知れてしまった。
強引に袖で涙を拭った。
「ちゃんと待ってますから!」
「――ああ」
行ってくる、と背中越しに彼は言い、去って行った。
大社に集まった全ての武士たちが平泉を旅立って行くのを見送ると、日はすっかり高く昇っていた。
「奥方様、そろそろ御所にお戻りになりますか?」
一人、大社に佇む望美に声をかけてきたのは、年若い武者姿の少年だ。まだ立派な衣に着られているといった風情の彼は、藤原秀衡の最後の子、高衡だ。まだ齢は十四で、昨年元服も済ませていたが、此度の戦には赴かず、平泉の守りを任されることとなった。総大将には奥州藤原氏当主自らが向かってしまい、さらにほとんどの武士たちは平泉から出て行ってしまったが、こうした男も必要なのは確かだ。
平家との戦では、本来は京にいない源氏の武士たちが戦場に向かったため、京の守りが完全に手薄になることもなかった。また、奥州での戦も、戦場そのものが平泉に迫ったため、平泉で武士の姿が少ないこともなかった。今回は、平泉ではない場所を戦場とするため、こうしたところにも手を回さねばならないことを初めて知ったのだった。
その平泉守護の大将を泰衡から任されたのが、高衡だ。
彼は、望美の頬がまだ僅かに涙に濡れていることに気づくと、
「それとも、いま少しこちらに残られますか?」
遠慮がちに訊ねる。望美は微笑みかけた。これ以上、義弟に気を使わせては申し訳ない。
「ううん、そろそろ戻ることにする」
「では、参りましょう」
丁寧に一つ頭を下げ、彼が先に歩き出す。望美の前に困難がないことを確かめるかのように、慎重な様子で階を下りて行く。
既に亡い舅の息子たちは、それぞれ気質が異なる。長男である国衡は、父によく似た豪快な性格だが、気遣い上手だ。次男の泰衡については、今さら語らずとも良いだろう。さて、三男の忠衡は実直で、勤勉だ。その点で言えば少々泰衡に近いものはある。そして、末の子となった高衡は、おっとりとしている印象が強い。物腰も柔らかく、年の割りにはよく気もつく。まるで女性に近い気質だと思っていたら、泰衡曰く、あれは外見と性格で侮らぬ方がいい、とのことだった。一度剣を握れば、誰よりも功を上げるだろうなどと、あの泰衡が褒めていたのだから、本物だろう。ただし、まだ齢を重ねていないため、今回の戦では、平泉に残されたようだった。
二人で歩く道々、高衡は数歩分、背後を行く望美の様子を、ちらちらと時折振り返っては、気にしているようだ。泰衡に、平泉の守護とともに、望美のことも頼まれているのかもしれなかった。今までは銀があれこれ世話を焼いてくれていることが多かったのだが、泰衡とともに戦へ赴いてしまって、それも適わない。
「奥方様も、お寂しくありましょう」
しんみりとした口調で、そのように声をかけられ、望美は僅かに面食らいながらも、すぐにくすりと笑って見せた。
「そうだね。でも、大人しく待っていることにしたの、今回はね」
「……奥方様は、ご存知ですか? 戦に赴く男などよりも、それを待つ女人の方が、よほど強い心を持つものなのだそうですよ」
高衡は思い馳せるように、空を見上げた。
「私も、奥方様たちのように、ここでの役目を全うせねばなりません」
どうやら、彼も本当は戦に行きたいと考えているようだ。望美と同じように、待つだけの身を嘆いているのかも知れない。
「高衡くんは、戦うことは怖くないの?」
「恐ろしいことなのかどうかも今は知りません。兄上たちのように、私もこの命を賭して、戦いたいと、そう思うばかりです」
まっすぐなのだろう。それは、視野の狭さも感じられる。まだ幼いと言ってもいいほどの年齢だ。彼は、まだ戦の何たるかを知らない。戦に倒れ死ぬことを、まだ知らない。それはきっと、幸せなことだ。けれどもだからこそ、危ういとも言える。彼のような人が、そのまま戦うことになったなら、どうなるのだろうか。ひどく傷つき、恐れるものか。それとも、ただ痛みすら感じられず戦うことになるのか。
戦で、様々な人を見た。戦を好む人間もいた、それを厭い逃げる者もいただろう、恐れながら挑む人も在った。高衡は、どういう武士になるのか。
「奥方様も、今御館とともに戦に行きたいと、そう請われたとか」
どうやら泰衡と柳ノ御所の門前で言い争っていたことは、かなり多くの人の知るところとなっているようだったが、大社での言い争う声もあの下を守っていた武士たちに聞こえてしまっていたのかも知れない。
「うん、まあ、そうなの。でも、待っていろと言われてしまったから」
「奥方様は、今御館のお言葉を聞き、納得なさったのですね」
「納得なのかな。ただ、泰衡さんが、何を本当に願っているのか、知ったからかな」
「今御館は、奥方様のお命を最も大事なものとお考えだったのですか?」
随分と直截的な言葉で問われて、僅かに戸惑う。何やら、夫婦の間の会話を聞かせるようで、気恥ずかしくなってきた。
「私が一番ってわけじゃないと思うけど、でも、そうだね。自分の妻が傷つくのは、嫌なんだって」
そうですか、と高衡は相槌を打ち、ふと微笑んだ。
「兄上――今御館は、奥方様のような嫁御を娶られて、幸せな殿方ですね」
「そうだといいんだけどね。高衡くんにも、きっとこの戦が終われば、そろそろそういう話も持ち上がるんじゃないかな」
「え、い、いえ、そのような! 私はまだまだ未熟ですから、早過ぎると思います!」
その頬が、一気に赤く染まってしまった。純粋な少年だ。望美も、つい堪え切れずに笑ってしまう。
「お、奥方様っ、そ、そのように笑わないでください!」
笑われて、さらに顔を赤くし、ますます慌てる高衡が、今は羨ましいほどだ。望美にも、まだ恋のこの字すら夢物語のようで、結婚などもまだ遠い未来のことだと考えていた時期があったのだけれど、今は全てを通り越して、しかも予想すら出来ない範疇に飛び出してしまっている。
「ごめんね、高衡くん。からかっているわけじゃないの。ただ、高衡くんもちゃんと、この戦が終わるまで無事でいて欲しいと思ったの」
作品名:さようならと告げる鳥の聲が聴こえる 作家名:川村菜桜