砂漠の蒼
マルゴットが喋ると、花の育つのがわかる。
『アインシュタインは語る』P044
砂漠の蒼
「はい、どうぞ」
音を立てずに、いつもと変わらない様子でルヴァはカティスの前にカップを差し出した。無駄のない慣れた手つきを見ながら、紅茶の入ったカップをカティスは受け取った。あまり装飾のない普段使いのものである。白地に薄藍で線が引いてある、高価ではないが、品のよいものだ。執務室に隣接する小部屋には、ルヴァが願って備え付けた小さなキッチンがあった。キッチンといっても簡単に湯を沸かせる程度のものだ。いくつかの棚と、二、三のティーセット、シンク。それだけだ。茶ぐらいルヴァ付きの女中に言えばすぐに準備してくるが、それこそお茶ぐらい自分で入れる、というのがルヴァの言い分らしい。
刻はちょうど三時を回った頃である。
カティスはまとめた書類を、首座である光の守護聖ジュリアスのところに持っていった帰りだった。自分の執務室への帰り道にルヴァの執務室の前を通るので顔を出したのだ。守護聖は書類仕事ばかりか、といえばそうでもない。現にルヴァはカティスが部屋に訪れた頃は、ちょうど本棚の整理を行っていた。ルヴァの日課のようなものだ。これとて女中に任せればよいものなのに、人に頼むと自分が使う時に不便だ、といってルヴァは触らせもしない。だからいつまでたっても本棚が整理し終わる様子はなかった。茶の件と同じである。聖地に来てそれほど日が立っていないこともあるが、ルヴァはまだ幼いのだ。潔癖というわけではないだろうが、固さが幾分残っているようだ。人を使うことに慣れていないのだ。だが、それもそのうち解けてくるだろうと、カティスはそのことについてはほうっておいた。
カップを口に運びながら、カティスは脇に座るルヴァに話しかけた。
「ルヴァはいつも丁寧にもてなしてくれるよな」
「え?」
下ばかり向いていたルヴァが、聞いたこともない、という表情をして顔を上げた。
「最初から茶会が開かれることがわかっているなら別だが、そうでないときもこうして準備してくれるのはお前くらいだ。まぁ、他の奴らとじゃあ、それほど長話になることもないが」
落ち着くのかな、お前のところが。そう付け足して、また一口紅茶をすすった。
ルヴァは少しほほを染めて下を向き、そんなことないです、と小声でぼそぼそ話した。カティスはそんな様子のルヴァを微笑ましく見ていると、ルヴァはしばらく何かを思い出すように宙を見つめてから、それは…、と言葉を続けた。
「それは…、私の母の影響だと思います」
「お母様の?」
ええ、と懐かしそうに両手でカップを包み、元から細い目をさらに細めた。
「私の故郷は砂漠の惑星で…。私が育った家はまだ街場だったのですが、少し離れたところでは、今でもオアシスのようなところに小さな家を構えている人も多かったのです。父は学者の端くれだったので、客人も多くて。常に家族以外の大人が出入りするような家でした。ですから母が客人達に丁寧にお茶を入れている姿などは、よく見ていました。街場ではあまりわかりませんでしたが、風一つで砂漠を渡ることはとても大変なことになってしまうのです。隣の家に行くのも一苦労の時だってあります。母は街場ではなく、オアシスの小さな集落から嫁に来た人でしたから、余計でしょうね。いつも『わざわざ砂漠を越えてきてくださったのだから、心をこめておもてなししなさい』って言っていました。だから、当然といいますか、私にも自然と身についてしまったのでしょうかね」
ここまで一度に話すと、ルヴァはおもむろにあぁ、と声をあげた。
「すみません。また長く話してしまいました。いけないとわかっているのですが。ご迷惑ですよね」
もう一度すみません、と頭を下げるルヴァに、カティスは軽く手を上げた。
「いや?そんなことないよ。それにルヴァのお父様とお母様の話を聞かせてくれて、ありがとう。初めて聞いた。…嬉しかったよ」
嬉しかったと言われて、ルヴァはふふ、と小さく笑った。
「本当によく出来た人たちで…。私にはもったいないほどでした」
ルヴァの言葉が過去形になってしまっているのを悲しいと感じながら、カティスはそうか、と相づちを打った。
「俺は、お前のことを知らないな。今までずいぶん話してきたつもりだったが。俺は何も知らないな」
「そんなこと、ないです」
「もっと、お前の話を聞きたい」
告白のように、だがなんのためらいもなく、カティスは感じたことを口にする。ルヴァはそんなカティスの態度に、また投げかけられる自分自身への言葉に、羞恥さえ感じていた。
「…そんな。私の話なんて、面白くないですよ」
さきほどよりもよりいっそうほほを赤く染めて、ルヴァは反抗した。
「それこそ、そんなことないさ。言っただろう?俺は嬉しいって」
うつむいてしまった幼い守護聖に、カティスはまた歯を見せて笑った。
「そうだ。次の週末俺のところに泊まりに来いよ。東のバラ園がちょうど見頃なんだ。朝露の落ちる前のバラは最高だぞ。香りが一番強いんだ。切ってもかまわないが、やっぱり庭で見せたい。だからといって日が昇る前からお前のところに呼びに言っても、館の奴らに迷惑がかかるだろう」
私のことはいいのですか、と切り返しながらルヴァはおかわりの紅茶を入れた。カップに注がれる心地よい水音を聞きながら、カティスはうっとりとした顔で続けた。
「朝のバラは格別だよ。本当に。いくつか摘んで部屋に飾ろう。そこで朝飯を食ってもいい」
カティスの心はここにあらず、すでに『朝霧の立ち込めるバラ園』にあるのだろう。自分も本に没頭してしまえばそれまでだが、カティスだって大概だ。「あなたの話を聞いているだけで、手に取るように庭の様子がわかります」
くすりと笑って、ルヴァはテーブルに置かれた茶菓子に手を伸ばした。
「朝摘みのバラを…そうだな。女王に持っていってもいいだろうな」
「え、女王陛下に、ですか?」
急に女王という言葉が出てきてルヴァは慌てた。いくらか慣れたとはいえ、ルヴァにとって女王は位の違う、まさしく雲の上のお方である。たとえ自分が守護聖だとしても、そう気安い存在ではない。そんなルヴァの慌てぶりに、カティスは笑った。
「そうさ、女王は俺の庭のバラ園が気に入りでね。たまに抜け出して、補佐官と二人で散歩しに来ているみたいだな。俺は見たことないが、女中が見ている」
驚くルヴァをそのままに、カティスはこともなげに言った。
聖殿にも、女王の住まう私室にも、また聖地中央にある庭園にも、バラは植えてあった。今の季節、いたるところで目にすることが出来るはずだ。
「女王だなんていっても、まだ若い女なんだ。女王も、補佐官もバラくらい愛でるさ。俺の庭のバラたちはよく面倒見てやっているせいか、他の場所のバラと比べて可憐さが違うって、褒めてくれるよ」
「はぁ、そうだったんですか」