私はただそちらの方ばかりを
私個人にとって、これまで出会った他のどの人よりも大きな意味を持っていました。
『アインシュタインは語る』P096
丘も見ず、谷も見ず、大地も見ず、大空も見ず、
私はただそちらの方ばかりを。
「一緒に聖地を出よう」
冗談でもよかった。嘘でもよかった。ずっと、そう彼から言われることに、淡い期待を持っていた。その一言さえあれば、私はきっとすがり付いてしまっただろう。
自分でも、酷く女々しいと思う。
これで、これから神鳥宇宙の守護聖の中で最年長となるのだから笑わせる。就任歴だってジュリアスとクラヴィスの次、第三位となるのに。
願わずにいることが出来なかった。
一日でも共に過ごせる時間を。
恨まずにいることが出来なかった。
新しい緑の守護聖が決定したことを。
* * *
緑の守護聖の交代が決まった。カティス自身は随分前からわかっていたらしい。宮殿にある女王の間、さらにその真下に瞑想をし、守護聖のサクリアを高める地下広間がある。そこに向かっても、以前のような勢いは無かったのだとカティスは笑った。なんでもないことのように。
笑い事では、ない。
守護聖の交代というものは、始まりがあれば終わりがあるのと同様、あたりまえのものだ。それがたまたまカティスの身に起きたということだけだ。守護聖のサクリアの力量の低下は王立研究院からの情報からもわかるが、そのような資料をルヴァは見ていなかった。それよりも先にカティスは自ずから気づいたのだろう。女王も早々に気づいていたのかもしれない。ルヴァは、といえばこうしてカティスに言われるまで気づかなかった。最近カティスが頻繁に地下広間や王立研究院に出入りしていたことを知っていたのに、それが何の為であるか聞きもしなかった。新たな惑星へのサクリアの調整の為ぐらいにしか考えていなかったのだ。なんという浅はか。なんという愚か。そんな自身への情けなさと、守護聖の交代という大事件を前にしているにもかかわらず当の本人の落ち着いた様子に、ルヴァは苛立ちを隠せなかった。
すでに後任は決まり、使者も出しているという。マルセルという森林惑星に住む少年ということだ。歳は十四。随分と若い。そうはいってもルヴァ自身十五歳で聖地入りした身ではあるが。カティスから渡された王立研究院からの情報を見れば、そこには聡明そうな金髪の少年の写真が写っていた。
「この少年が次の緑の守護聖、ですか。……若すぎる」
いつものように、地の守護聖の執務室でお茶を飲む。いつもの座席、いつもの茶葉、いつものティーカップ。だが、どこか余所余所しい空気が二人を包んでいた。そのことを知ってか知らずか、カティスは普段と変わらぬ様子でカップに口をつけた。
「そうか?だが頭のいい子だよ。まだ甘えたい年頃だろうが、責任感はしっかりしている」
「直接お会いしたのですか」
資料から頭を上げて、ルヴァはカティスを見つめた。
「あぁ、もちろん。もう聖地に来る日取りも決まっているよ。これから忙しくなる。何しろ守護聖の仕事を初めから叩き込まなければならん。それに俺の大事な温室のこともあるしな」
時間が、ない。
さも嬉しそうに話すカティスの姿を見て、ルヴァは何も言えずにいた。
数日経つと、話していた通りの少年が聖地にやってきた。まだ正式に女王の間でのお披露目はされていない。公式に発表になるのは、カティスから緑の守護聖の座を引き継いだ時だろう。その間は暗黙の了解として、扱いは緑の守護聖と同等、また住処もカティスと共に屋敷に住むことになる。噂を聞きつけたゼフェルやランディといった年少者達は、もうカティスの屋敷に覗きにいったようだった。ゼフェルが『女みてぇな奴がいる』といっていたから、おそらくその子だろう。ルヴァはといえばわざわざこちらから出向くこともなく、普段と同じようにしていた。カティスの段取りもあるだろう。邪魔をする気はない。だが何よりも本当は、カティスがこの聖地からいなくなってしまうことをルヴァは未だに認めたくなかったからかもしれなかった。出来るだけ、考えたくない。しかし当のカティスは引継ぎのためか忙しくしており、以前ほどはルヴァのところに入り浸らなくなっていた。それがさらにカティスの不在を思わせて、ルヴァを落ち着かなくさせた。
日の曜日、午後である。
裏庭の林の奥にある東屋で読書をしていたルヴァは、屋敷のほうが騒がしいことにようやく気づいた。
「おーい、ルヴァ。いないのか?」
よく通る声が聞こえる。カティスである。東屋から立ち上がり、裏庭に出るため赤茶けたタイルを踏んだ。ちょうど庭からこの東屋は死角なのだ。庭と林の境まで下りると、手を振ってカティスと近づいてくるのがわかる。カティスと、次期緑の守護聖の少年……マルセルである。カティスがマルセルを連れてあいさつ回りをしに来たのだ。
「なんだ、ここにいたのか」
「えぇ。今日は風が気持ちいいですから。……お茶、入れましょうか」
ちら、とカティスの背後にいる少年に目を配りながらルヴァは言った。
「いや、今日は他にも回るところがあるんでね。次の機会にしておくよ。そういえば、こいつとまだちゃんと顔をあわせたことがなかっただろう。だから今日は連れてきたんだ」
カティスに促され、マルセルはおずおずと一歩踏み出した。ルヴァもマルセルの様子をじっと待っていた。
「あ、あの……はじめまして、ルヴァ様!僕、マルセルっていいます。よろしくお願いします!」
「はい。よろしく、マルセル」
まだ子供だが、王立研究員が選んだ守護聖である。しかし資料で見た顔を比べると随分と幼い。こんな少年を手放すのは仕方ないとはいえひどく酷く悲しかっただろうと、ルヴァは自身の両親と重ねて思い返した。ルヴァが守護聖として就任し、迎えの使者が来たとき、母親はいつまでも泣いていたし、弟は怒ったような顔をして使者を睨み付けていた。いくら宇宙のため、女王のためとはいえそれまで共に生活していた家族と引き離すのだから当然だろう。この子も同じように引き離されたに違いないのだ。何か選択肢があるわけではない。一度守護聖として決まってしまえば、どんなことが起きようとも、それこそ宇宙が崩壊したとしても、決定を覆すことは出来ない。それは宇宙の意思なのだ、と無理にでも飲み込むしかない。しかし、まだそう遠くない過去に一生の別れを経験した割には、マルセルは明るかった。もしやまだ何も教えてないのでは、と疑いたくなるほどに。だが、カティスが絶賛していたほどの人物ならば、全てわかっていてこの態度なのかも知れなかった。そうだとしたなら、生来大物になる可能性はある。自分はどうだったろう、と思い返してみると、聖地に着たばかりのころは思うように馴染めず、屋敷にこもりきりで、カティスの手を煩わせていた。
一通り挨拶を終えるとカティスとマルセルは裏庭から離れていった。女王の前でのお披露目も、そう遠くなく行われるに違いなかった。
* * *
「なぁ、何を怒ってるんだ」
「何も」
作品名:私はただそちらの方ばかりを 作家名:ヨギ チハル