私はただそちらの方ばかりを
マルセルがこれから守護聖として、あるいは一人の男としてどう成長するのかを知らぬまま聖地を出ることが辛いのだ、とカティスは言った。
「一緒に酒も飲めなかったしな。俺があいつくらいの時は、親父から誘われて飲んだものだけどな」
笑うカティスにルヴァは肩を震わせて答えた。
「あ、あなたは、最後まで私にひどいことを言う……!」
カティスは知っているはずだった。ルヴァがマルセルと会うとき、笑っていなかったことを。カティスは知っているはずだった。ルヴァがマルセルの存在を妬んでいる事を。体の底辺に流れるドロドロとした感情を、全て、知って、なお。全て知って、この男はルヴァに頼むのだ。残酷である。
「頼むよ。お前にしか、出来ないことだから」
じとりと恨みがましい目で見ても、カティスはただただ、微笑むばかりである。
「断れないと知って、あなたはわたしに頼むのでしょう?」
「あぁ、そうだ。俺はずるいな」
「本当に……あなたは、ずるい」
* * *
その後はとんとん拍子に事は進んだ。女王の間での正式なマルセルのお披露目も、緑の守護聖の就任式も。あらから引き継いだ後なのか、カティスが聖地を去る日にちも就任式の後さほど遠くはなかった。カティスの言ったとおり、見送りはジュリアスとクラヴィスだけのはずだったのだが、後で話を聞いてみるとディアを筆頭に、オリヴィエも、オスカーも他の子供達も総出で見送ったらしい。結局見送りにでなかったのはルヴァだけだったのだ。だがそのことに後悔は、ない。カティスが醜態を晒すのが嫌だといったが、それはルヴァとて同じことだった。
聖地に来てまだ日がたたないころ、ルヴァはよく泣いていた。声にも出さず、涙も流さなかったが、泣いていたのだろう。そのことに一番に気づいてくれたのもカティスだった。
納得して聖地に来たはずだった。家族にも会えず、故郷にも戻れず、宇宙のため、女王のために命を捧ぐ。覚悟してきたつもりだった。だがルヴァの胸を支配するのは熱い使命感などではなく、年老いた両親や、まだ幼い弟のことばかりだった。飼っていたヤギのことも、砂漠のことも、それに対称となるような、何もない広い夜空のことも。
人が途切れた、夜の庭園にカティスはルヴァを連れ出した。空には満天の星。ざぁざぁと噴水から流れる水の音だけが、公園に響いていた。
「ルヴァ、どうした?女王にも補佐官殿にも……あぁ、もっと怖い奴がいるか。ジュリアスにも黙っといてやるから、な。なにか話したいことがあるんじゃないのか」
「カティス……」
安心させる、人懐こい笑みでカティスはルヴァを促す。
「わ、私は……」
おどおどとした物言いで要領をつかめないルヴァの話を、カティスは待った。
「私は、見ず知らずの誰かのためでなく、家族のために役に立ち、死にたかった」
そういってルヴァは少しだけ、泣いたのだ。
ルヴァに新たな希望やものの見方を教えたのはカティスだ。外の世界に連れ出してくれたのも、もちろん下界へ『遊び』に連れ出したのもカティスだ。新たなきっかけは全て、カティスから受け取ったものだ。
それなのに。
こうして自身が聖地から去るのと同時に全て奪い取って、自分がいなくなったあとにもルヴァが迷わないように役割を持たせて。なんて、ずるい人だろう。散々罵ってやればよかったのだ。ここまで気を許したのも、頼ってしまったのも、全て、カティス、あなたのせいだと。でもだからといって最後まで恨みきれないのも事実だ。それ以上のものを彼は、ルヴァに残した。ルヴァだけじゃない。聖地中に。女王にも補佐官にも、他の守護聖にも。恨むことなど、誰が出来よう。こうして唇をかみ締めてじっとしている以外、他に方法など、ないのだ。時がいつか流してくれる?馬鹿な。ここには人の世の何倍もの『時間』が溜まっているのに。自分だけが取り残される、恐怖。それは昔は家族や故郷だった。今はカティスにすり替わっただけだ。
何も、変わっていない。何も。何も。
* * *
「お邪魔します、ルヴァ様」
キイ、と音を立ててルヴァの私室の扉が開くと、後から子供の足音が続いた。
「カティス様の温室でお花が咲いたので持ってきたんです。……ルヴァ様?」
長い金髪が揺れる。部屋の主を探すようにぐるりとその場を周るがマルセルはルヴァの姿を見つけることが出来ない。マルセルの抱えた花束から、ふわりと花の香りが部屋中に広がる。なつかしい、香り。
「はいはい、私はここですよー」
壁一面に本棚が設置してあり、そこに立てかけられた梯子の上からルヴァはマルセルをおもしろそうに見下ろしていた。
「いらっしゃい、マルセル」
ねぇ、カティス。私は上手に笑えていますか?
【終】
作品名:私はただそちらの方ばかりを 作家名:ヨギ チハル