大空と明星―1―
ありえない。綱吉は否定の言葉を繰り返す。けれど目の前で起きたことは事実で、本物だった。典型的に頬でもつねってみようかとも思ったが、流石に人目が憚られるのでやめた。代わりに爪を立てて拳を思い切り握ってみるとちくりと痛みが走った。現実だった。
綱吉の目の前にひらひらとひとつの花弁が舞った。掌でそれを受ける。桃色の綺麗な花弁。どこか桜にも似たそれを、綱吉はぎゅ、と握りしめた。
生き返ったのだ。この樹は。あの光によって、死から生へと引き戻されたのだ。どういうことだ。そんなこと、あるはずがないのに。そう、そうだ。あるとすれば、それは―――
「奇跡だ」
誰かが言った。それを引き金に次々とその言葉が飛び交う。
奇跡。そう、奇跡だ。これは、奇跡。
綱吉が最も憧れ、そして最も忌み嫌うものだった。
―――――エステリーゼ。
綱吉は小さく、自分の中だけでその名前を反芻させた。何度も、何度も。
奇跡を生んだ少女に、自分は何を感じているのだろうか。
綱吉には、わからなかった。
ふと、気配を感じた。嫌な気配。思考に陥りそうになっていた綱吉はその気配に引き戻される。隠してはいるが、“裏”の世界で生きてきた綱吉にとってそれらは慣れ親しんだとても身近なものであり、感じ取るのは他愛もなかった。
数はそう多くない。気付かれないようにちらりと視線を向けると、人影が見えた。暗くてあまりよくは見えないが、長い鉤爪のようなものをつけ、目が赤い仮面を付けているようだった。綱吉は瞬時に同業者であることを悟った。
どうやら彼らに気付いたのは綱吉だけではなかったようだ。ユーリが綱吉と同じように彼らに視線を向けていた。
「あんたも気付いたか」
ユーリが綱吉にしか聞こえないように言った。
「狙いは君たち?」
「たぶんな」
「見るからに物騒な人たちだけど、なにしたの?」
「人違いから始まっただけなんだけどな」
ユーリはエステルを立たせ、カロルにもこの場を離れる旨を伝えた。ラピードはすでに坂のところで待っていた。綱吉は、自分はどうしようかと考えようとすると、先程と同じようにエステルに手を引かれて同じくその場を後にすることとなった。苦笑し、そして少しの、言いようない感情を抱いて、繋がれている手を見つめた。
立ち去る際引きとめられたこともあり、とりあえず街の長という初老の男性の家へ行くことになった。
彼は樹を救ったエステルにお礼がしたいということだったが、エステルはそれを断り、受け取らなかった。けれど初老の男性はそれでは気がすまないと言わんばかりの表情だった。するとエステルはあっ、となにか閃いたようだった。
「では、この街で一番のお医者さんを紹介してもらえませんか?」
「医者……ですか? どこかお具合でも……」
「いえ、この人が」
ずい、とエステルに背を押された綱吉は、げ、と心の中で顔をひきつらせた。
「記憶喪失みたいで……。自分が何処から来たのかも、魔導器のことも分からなくなってしまったみたいなんです」
「魔導器のことを……?! それは大変だ」
だからその魔導器ってなに。と綱吉は聞きたかったが、そこまで空気が読めないわけではないので、ただ黙っていた。もうことの成行きに身を任せてしまおう、と。
長の男性は同情したように声を上げたが、すぐに申し訳なさそうに顔を曇らせた。
「ですが……この街の医者は皆しがない町医者です。軽い怪我や風邪の診察は出来ても、記憶喪失の治療と言うのは……」
「そんな……」
エステルが悲しそうに俯いた。お力になれず申し訳ありません。と頭を下げる男性に綱吉はこちらこそ、と言った。
「変な申し出をしてしまいすみませんでした。お気持ちだけで十分です。ありがとう」
でも、と渋るエステルに綱吉は笑いかけ、ひとつ頭を撫でた。駄々をこねる子どもをあやすような手つきだった。エステルはそれに大人しく口を噤む。未だになにかお礼をしたいという男性に、ユーリが特等席で花見をさせてくれと言うと、男性は何度も何度も頭を下げた。それを背に家を後にする。やっぱりエステルは綱吉の手を引いて歩いた。
「で、あんたはこれからどうすんだ?」
立ち止まって振り返ったかと思うと、ユーリが綱吉に聞いた。
綱吉はそうだね、と口に手をあてて考えるそぶりを見せた。と言っても、実はもう答えは決まっているのだけれど。
「良かったら、君たちと一緒に行ってもいいかな」
初めは、彼らとは早々に別れるつもりだった。自分はこの世界のことをなにも知らないが、まぁなんとかやっていける自信はあったし、何より自分を不審がっている人間と行動を共にすることほど面倒なことはないからだ。
けれど綱吉の考えは一変した。綱吉はただ、早くこの世界から元の世界へと戻らなければいけないのだ。あの山積みにされた書類と元家庭教師の銃弾が待っているかと思うと青ざめざるを得ないが、それでもあの場所が綱吉の居場所であったし、帰る場所であった。
そのため、一か所に留まるより、色々な場所でその手掛かりを探った方が確実である。なにも知らない自分が一人でウロウロしてのたれ死ぬよりも、この世界のことをよく知り、腕の立つ人間と共に行動した方が手っとり早いと感じたのだ。
そしてもう一つ。
綱吉のこれまでの経験上、こんな面倒事を片付けるには、面倒事に自ら首を突っ込んでしまった方が目的を達成しやすいと悟ったからだ。
みるからに面倒事そうな3人+1匹を目の前に綱吉は微笑む。
さて、今回はどんな面倒事が待っているのかな。