bitter tears
彼のソレに気づいたのは、三ヶ月程前のことだった。
例の如く、池袋で喧嘩という名の殺し合いをして来た日の夜。帰宅した彼の右手首に、未だうっすらと血の滲む包帯が巻いてあったのだ。
「コレ、どうしたの」
「ああ、標識避け切れなくてね。ザクッとイっちゃって。血が止まらなくて、新羅の所で手当てしてもらったんだ」
「…そう」
いつものように、唇を歪めて嗤いながら、彼は喧嘩相手への罵倒を延々繰り返した。
ホントあんな化け物早く死んだ方が世の中の為だよね。ていうか俺の為にもアイツは死ぬべきだ。単細胞のクセに何であんな目敏いんだろう。あ?これタバコの跡!?チッ何枚目だよっ。あーイライラする!次会ったら、絶対に、殺してやる。
苦々しげにゴミ箱を蹴飛ばした横顔には、掠り傷一つ無い。否、身体のどこにも、傷はない。
―右手首を除いては。
「ゴミ箱、片付けておいてね」
「…クソッ」
僅かな違和感を打ち払うように、私は仕事に戻った。
雇い主はブツブツ言いながら、ローテーブルを脚で蹴りやった。
それからすぐのことだ。あちこちに違和感が転がり出したのは。
池袋へ向かう回数が極端に増えた。
残業をさせなくなった。
大した怪我は無いのに、右手首の包帯だけが一向に取れない。
床に残る、小さな血痕。
「ねぇ」
「…んだ、アイツ。どうして…クソッ、早く死ね、死んでしまえ…」
「ねぇ」
「…何?」
「……………」
手入れを欠かさなかった爪をガチガチ噛みながら、虚空を睨む彼。
唇からは呪いの言葉を吐き出しながら、合間には震える息を挟む。
「今日も、アイツと喧嘩だったのかしら」
「…悪い?」
常より暗い光を宿した眼でギロリと一瞥される。
―悪くはない。構わない、知ったことではない。
ただ、
「御飯、食べて頂戴。片付かなくて困るわ」
折角作ってやったのだから、温かい内に食べて欲しかった。
一つの確信にも似た予感があった。
考えたくなかった。
けれど、知らねばならぬと思った。
身支度を整えて、彼のヘラヘラした声に見送られて部屋を出る。
「……………」
私は動かなかった。
今日は彼が池袋に赴いた。そして、あの男と殺し合って来た。
身体に目立つ傷は無かった。手当てもしていない。
以前のように、簡単には表情にも声にも出さなくなった。
だからこそ、きっと―――。
カチャリ、合い鍵で出来るだけ音を立てぬように部屋に舞い戻る。ヒールには細心の注意を払い、彼のよく座るソファに視線を合わせた。
「…っ!臨也!」
照明の落ちた部屋で、右手首を流れ落ちる血液が月明かりに映えていた。
無意識の叫びも聴こえないのか、彼は愛用のナイフを白い皮膚に押し当てる。
「止めなさい!」
こういう時、本当はどうするのが正しいのだろう。わからない、わからないけれど。
私は彼のそんなところを見たくはない。
「っ、あ」
夢中で左手のナイフを取り上げる。
あっさりと奪わせると、彼は驚きとも残念とも愉快ともつかない顔で苦笑しつつ、溜息を吐いた。
「あーあ、見つかっちゃった。帰ったんじゃないの?」
「い、ざや…」
「返してよ、ソレ」
「……………」
「返せよっ!!」
「っ!」
表情が劇的に変貌する。
据わった瞳にはそれだけで死に至らしめられるような明確な殺意がこもっていた。犬歯でギリギリと唇を噛み破り、彼は私を目掛けて飛びかかる。
私はとっさにナイフを力一杯、部屋の隅に投げることが出来たが、身体は逃げ切れず、ソファの肘置きに後頭部をぶつける形で転がった。
「痛っ、」
「何をするんだよ」
「………臨也」
「どうして邪魔をする」
「……………」
「波江」
私の上に馬乗りになる彼を見つめる。睨み返す。
―決して眼を逸らさないこと。
それが、私の今出来る全てだった。
「俺がいつ君に迷惑を掛けた」
「……………」
「『コレ』をすることの何が悪い」
「……………」
「答えろ、波江」
冷たささえ失った、色の無い声。紅い虹彩だけがギラギラと輝きを増していく。何が可笑しいのか、クスクス嗤い始める彼に組み敷かれながら、私の脳裏に滅多に使わぬ単語が浮かんだ。
―そうか、コレが世間でいうところの『ヤバい』状況か。
「…ふ、ふふふ」
理解したら、何だか『面白く』なった。
「………おい」
「迷惑よ、本当に」
「……………」
「らしくない貴方のせいで、私までらしくない気持ちにさせられるなんてね」
「…何だと?」
「だって、」
滑稽じゃないこんなの。三文芝居もいいところよ。コレが素敵で無敵な情報屋さん?こんな醜態晒してるのが最凶最悪の情報屋さん?ハッチャンチャラおかしいわ。ねぇ貴方知ってるかしら。自傷行為は生きる為にするらしいわよ。流れる血を見てああ生きているんだって実感するために行うのよ。でも、貴方のは、違うわ。貴方のは、
「…めろ」
「貴方のは、大好きな平和島静雄と仲良くしたいのに出来ない自分が無様で、殺したいくらい悲しくて、だけど死ぬのは怖くてどうにもならなくて、行き場の無い想いを惨めにぶつけているだけじゃな」
「止めろ…!!」
「!」
タラタラと血を垂れ流す右腕を彼が振り上げる。
―殴られる。
反射的に瞼を閉じ、顔を背けるも、心のどこかでは面白がっている自分がいた。
この男は、私の初めてばかり奪う。
「っ…く」
「………?」
ところが、宙をさまよった右手は、あろうことか、おずおずと私の後頭部に差し入れられる。右肩を押さえつけていた左手も、その腕ごと背に回った。
抱き起こされて、強く掻き抱かれた。
「らしい、って…何だ」
「え…?」
「大切にしたい相手を傷つけて、楽しいとか思って嗤っている…それが俺か。それが折原臨也か」
「……………」
私の右肩に頭を乗せて、彼は叫ばないままに、叫んだ。
「俺は…何でこんななんだろう…」
熱い息遣い、震えて、歯がカチカチと鳴いていた。まるで、泣かない彼の代わりのように。
―ああ、泣けないのか。
背中に爪を突き立てられた痛みに、私はいよいよこの場に似つかわしくない感情に見舞われてしまった。
未だ鮮血に染まる右腕を引き剥がすと、私はソレに、
「貴方、気づいて欲しかったんでしょう?」
「っ…な、」
「本当に隠し通すつもりなら、貴方はもっと上手くやるはずだもの」
「波…江…」
「目立つ場所を選んで、」
「やめ…っあ、」
「これ見よがしに包帯を巻き続けて、」
「あ」
傷口に舌を這わせる。唇を押し当て、溢れる血を啜る。
幾本ものナイフの跡一つ一つを尖らせた舌先でなぞると、彼は小さく声を漏らした。吐息の混じる掠れた低音は、徐々に欲で彩られていく。
「っ、…ん」
「誰かに、」
―――私に、
「気づいて欲しかったんでしょう」
―――助けて欲しかったんでしょう。
「は…波、江…?」
眉を寄せて歯を喰い縛る彼は、痛みを堪えている子供のようだった。
わざとジュルリと音を立てて舐め上げ、私は両手で彼の秀麗な顔を挟む。
「耐えられない時は、自分ではなく、私に向けなさい」
「………?」
そして、耳元で、囁いた。
「ねぇ、臨也。私を使って?」
「!」
「…ね」
「何言っ、ん!?」
作品名:bitter tears 作家名:璃琉@堕ちている途中