堕落者2
彼の言い分はとても分かり辛いが、私はもう帰る事が出来ないのだと、そう理解する事だけは出来た。それが嘘だとしても、私には信じることしか出来ないという事も。私の取り巻くこの状況が、よりそれを実感させる。
私は鼻で笑いながら、質問を変えた。
「私の内世界とやらには、家族はいるの?」
「いない」
あっけらかんと、私の存在理由というのは、足音すら立てずに消え去った。
「あっちの世界で、家族は私がいなくなってどうしてるの」
「あなたの属さない世界となった今、あなたは本来から存在しないとみなされている。あなたの家族はあなたを知らない」
彼の戯言がもし正しかったなら、私は痕跡すら残さず、あの日常から抜け出したという事だ。完璧だった。誰もが嘆く必要は無い。家族や友達は何一つ失ってなどいない。彼らが適応しなければならないだろう変化はなく、これから先訪れる事すら無い。それはどこからどう見ても不満の無い、幸福の形だった。
家族は知らない、寝起きを共にした存在が、一人いなくなっていることを。友達は知らない、挨拶しあった存在が、一人いなくなっていることを。私は忘れもしない。家族や友達に二度と会えないだろうと言う事を、今しがた理解したばかりだ。私が何より死を恐れなかったのは、自分の別れを知る事が無いからだった。だからこそ、死へ対する不安と言うのは、別れを知る事の出来る残された人たちの未来だけだったのだ。しかしもう、私が勝手に不安がる必要は無い。
「大丈夫か」
視界が彼の顔で塞がる。
「何故、家族や友人を考えている?」
言われて気付いたが、彼は言葉無しで情報を与える事が出来た。という事は、その逆も出来るのではないか。
「勝手に、頭の中除かないでよ」
「御意」
彼は離れなかった。こんなに鼻と鼻が近くにあるというのに、彼は不快にも思ってないらしい。息がかかるのではないかと私は顔を顰めようとしたが、しかし、彼からは呼吸の音すら聞こえなかった。姿が人だとしても、彼はやっぱり人間では無いという事を再確認する。
「あんたなんで人の姿してるの」
「あなたの役に立つのに、使い勝手がいいからだ」
私の役に立つ。彼は私を元の世界に戻すことすら出来ないというのに。
「私の役に立ちたいの」
「ああ」
「なんで」
「気まぐれであなたを連れ出してしまった」
彼の表情は先ほどから乏しいものだったはずだが、心なしか私を憂えているように見えてくる。彼のそれを後悔の念だと思うのは、私の自分勝手な思い込みだろうか。
考えてみると、ここがどこだか分からず、ただ一人の人間である私は、ここから脱出することは出来ない。そして、そうする理由もなかった。私が今頼りにすべきなのは、目の前の化け物以外にいない。先ほど見た彼の記憶からして、彼は超能力を持っている。テレパシーといい、テレポートといい、私は体感し、知ってしまった。彼は必ず役立つだろう。
彼は私を連れ出してしまった。彼は私を元の世界に返せない。ここまで考えれば私は野垂れ死ぬしかないはずだが、私は今ベッドの上にいて、それ以前私は気絶して寝そべっていた。そして、ここは何処か部屋の一室のようだ。彼には私を生かす意志があるようだと結論付けて、今のところ間違いは無いだろう。
もっとよく現状を把握した後に決断すればいい。むしろ、それが最善だと思える。
「あんた、さっきも言ったけど、私の考えること、読まないでね」
「御意」
見回しても時計が無いので、仕方無しに腕時計を見ると、四時半を過ぎていた。私が帰宅していた時間から経ったのか、それともこの時刻が午前なのか、窓のないこの部屋で分からなかった。そして、この部屋でただこの化け物の話を聞くだけというのは、とんでもない間違いだったと気付く。
「お茶を」
彼の声に首を傾げると、彼は言った。
「あなたはお茶を飲まないのか」
化け物は湯飲みに目配せすると、こちらの顔を伺った。
「ああ、飲むけど」
言うと、私が取るのに手を伸ばせばいいだけなのに、化け物はお盆ごとそれを手にとって、こちらに差し出した。先ほど目をやったとき、湯飲みに湯気など立っていなかったが、今見ればその湯飲みからは、ふわりふわりと空気がゆらめいている。そうするのは今で無いと、断る言葉は、彼が両手でこちらに差し出す姿を見て喉に引っ込めた。
恐る恐る湯飲みをを手に取った私は、指を火傷する事無く手のひらでそれを包み込み、口付けて舌を痛めることも無く、その中身を飲み下す。