堕落者4
しかめ面を作り、振り向きもせずに言う。
「何階?」
「40階だ」
手を擦り合わせると乾いた音が鳴る。風が吹きつけたが、その程度、体はびくともしない。手すりに寄りかかっていた所為で痛み出そうとする猫背を、私は気に掛け始めている。
眺めれば高層ビルの群がよく見えた。それでも東京の土地を知らない私には、それがどこなのか全く分からない。私はここを全く知らない。隣の化け物はここを私の内世界だと言った。つまりここは私の世界だと言うのに、どうやらこの世界を生み出したのは私だというのに、まるで自分自身が今まさにここへ生み落とされた心地でいるのだ。それほどまでに、目の前の光景は新鮮だった。
「部屋に戻るか」
声に振り返り、猫又に目配せをすると、私はガラス戸まで歩く。戸に手を掛ける。が、開かない。後ろに猫又が来て、ガラス戸の重なりに手を翳し、戸の向こう側にカチャリと音を立てた。どうやら鍵を開けたらしく、指に軽く力を入れれば、戸は引っかかりもなく開かれた。
足を踏み入れた先はリビングだった。家具がぽつりぽつりと並べられていて、物が無く、人の住む部屋には見えない。事実そうだったのだろう。立ち呆けを嫌った私は、近くにあったソファへ座る。猫又はいつの間にか猫の姿に戻り、隣へ座った。
「あんたって…」
本当は彼の能力について尋ねようとしたが、私の口から出た言葉は違うものだった。
「あんたって名前は無いの」
この化け物と出会ってから、「あんた」なり「猫又」なりとしか呼んでいない。化け物はソファへ座るのにわざわざ猫の姿へ戻ったけれど、それに比べ、私はあまりに礼儀がなってないではないか。
「猫又と呼んでくれてかまわない」
「名前、無いの?」
「ああ」
私は彼が見せた虚像を思い出した。そこにはたくさんの猫又がいて、それも数え切れないほどだった。「全知全能なるあの方」とやらが彼らを創ったのは、一匹一匹に名前をつけるためでは決して無いだろう。彼が言うのは尤もだ。
「ふーん」
名前が無いのは不便だ。呼び掛けるのに猫又とは、どうにも実用性が無い。そう思ったら、妙案が口を突いて出た。
「あんたの名前、私がつけていい?」
猫はこちらを振り向いた。
「名前」
「うん。だって、猫又っていうのがあんたの名前じゃないんでしょ」
「ああ。人が名づけた名だ」
「なら、嫌じゃないなら私が考える」
考え出したらすぐひらめいた。
「すず、は?」
「すず」
「うん、鈴。男でも変な名前じゃないと思うし」
彼の目の色を見ていたら、何故か金子美鈴と言う名が思い出され、彼女の有名な詩までが思い浮かんだ。だから、これで良いと思う。きっとこれ以上考えようとしたって、私の頭から他の考えが思い浮かぶ筈がない。
「すず」
「他がいい?」
「すず……」
彼は急に人の形になると、私は宙に浮いた。
「嬉しい」
彼は言う。
「嬉しい。私は鈴。私は鈴」
切れ長な目を細め、細く引かれた眉を開き、口元に美しい孤を描きながら彼は言う。私はすっかり放心した。私は所謂、「たかいたかい」をさせられている。見たところとても背の高い彼が、その長い腕で軽々と私の体を抱き上げ、振り回す。がっちりと脇腹を支える手の平だけが私の命綱らしい。
閉口していると、やっと彼は私の様子に気付き、すぐ私をソファへ下ろす。
「すまない」
目が回って気分は良くないが、怒りが沸く筈も無い。彼はずっと表情を動かさずにいたのに、いきなり満面の笑みを見せつけられれば誰だって驚いて、拍子抜けする。何しろ見かけ大の男である彼が、はしゃぐ姿は衝撃的だった。
「いきなりは止めて」
せいぜい言えたのはこれだけだ。彼は猫の姿に再び戻り、大人しく私の隣へ戻った。
落ち着くと、先ほど質問しようとした事を思い出して、私は言った。
「あんたって何の能力が使えるの」
「念力だ」
「それと?」
「それだけだ」
あれ。
「テレポートは?」
「念力の応用だ」
「へー」
どうやら彼の能力は一言で言い表せるようだが、その使用できる範囲は多岐に渡る様だ。
「詳しく言うと何が出来るの」
「念動、空間操作、時空操作、透視、読心、予知、物体構築……」
つらつらと、思い浮かんだ分言い出しそうだったので、思わず口出しする。
「もっとわかりやすく!」
「物質を動かす事が出来る。空間を操作して物や生物を移動させる事が出来る。時空を操作して物や生物を移動させる事が出来る。視覚に頼らず感知する事が出来る。生物の思考を読み取る事が出来る。未来を予測する事が出来る。物質から物体を作り出す事が出来る……」
そろそろ潮時と、再び彼の言葉を遮る。
「えっと。つまり、手も触れず物を動かしたり、テレポート出来たり……まあ、ある程度なんでも出来るんだね」
「そう考えて差し支えない」
なるほど。何せ、私を異空間に連れ出すぐらい、彼は化け物だったっけ。
「物体構築……物質から物体を作り出すって、この服を出したのも?」
私は袖の端を指で摘んでみせる。
「ああ」
「もしかして、ここに置いてある家具も?」
「ああ」
「へー」
あれだけ彼の能力を体感しておいて、まるで空想を語り合っているような心地だ。
「このマンションは借りたの?」
「まだ決まっていない」
「え?それってどういう……」
「法的にまだ認められてはいない」
「え!?」
「しかし心配する事は無い」
「だって法的にって。気付かれたら捕まるの?」
「それは無い。このマンションの所有者や住居者は既に洗脳してある」
どうやら彼の能力は私の想像を遥かに超えていた。
「洗脳って」
「念力を施せば可能だ」
そして、彼はすかさず言う。
「もちろん、あなたにはしない。それに、読心をしない以上、洗脳は出来るものではない」
見事図星をつかれた。
「そう」
私は今どんな顔をしていればいいかわからなかった。彼は私の感情を読み取っている。それにしたって、そうも適切に予測出来るのなら、それは彼の言う読心と何ら変わりないではないか。指摘されたのは不愉快だが、逆に指摘をされないのは気味の悪い事だったので、私が彼へ注意すべき事は無かった。
「それにしても、法的に認められてないって。契約してないって事でしょ?洗脳出来るなら、洗脳して契約もさせられるって事でしょ」
「そうするか」
平然とそう尋ねたのに面食らったが、なんとか一言返事する。
「うん」
「御意」
彼がそう言うので、何か行動に移すのかと待っていると、しかし彼は何もしなかった。沈黙が落ちる。
「契約……」
「した」
「え、もう?」
「ああ」
私は、彼と会話をしていただけだ。彼は隣で、ぴんと背を反らせて座っていただけである。理解しがたいが、彼はきっと私の言った通りにしてくれたのだろう。
「本当に、何でも出来るんだ」
ところで、彼に社会的立場は無いだろう。国籍は無いし、お金も無いだろうに。契約には名前以前にそれが必要だろうけれど、彼はその能力でどうにかしてしまったのだ。
「何階?」
「40階だ」
手を擦り合わせると乾いた音が鳴る。風が吹きつけたが、その程度、体はびくともしない。手すりに寄りかかっていた所為で痛み出そうとする猫背を、私は気に掛け始めている。
眺めれば高層ビルの群がよく見えた。それでも東京の土地を知らない私には、それがどこなのか全く分からない。私はここを全く知らない。隣の化け物はここを私の内世界だと言った。つまりここは私の世界だと言うのに、どうやらこの世界を生み出したのは私だというのに、まるで自分自身が今まさにここへ生み落とされた心地でいるのだ。それほどまでに、目の前の光景は新鮮だった。
「部屋に戻るか」
声に振り返り、猫又に目配せをすると、私はガラス戸まで歩く。戸に手を掛ける。が、開かない。後ろに猫又が来て、ガラス戸の重なりに手を翳し、戸の向こう側にカチャリと音を立てた。どうやら鍵を開けたらしく、指に軽く力を入れれば、戸は引っかかりもなく開かれた。
足を踏み入れた先はリビングだった。家具がぽつりぽつりと並べられていて、物が無く、人の住む部屋には見えない。事実そうだったのだろう。立ち呆けを嫌った私は、近くにあったソファへ座る。猫又はいつの間にか猫の姿に戻り、隣へ座った。
「あんたって…」
本当は彼の能力について尋ねようとしたが、私の口から出た言葉は違うものだった。
「あんたって名前は無いの」
この化け物と出会ってから、「あんた」なり「猫又」なりとしか呼んでいない。化け物はソファへ座るのにわざわざ猫の姿へ戻ったけれど、それに比べ、私はあまりに礼儀がなってないではないか。
「猫又と呼んでくれてかまわない」
「名前、無いの?」
「ああ」
私は彼が見せた虚像を思い出した。そこにはたくさんの猫又がいて、それも数え切れないほどだった。「全知全能なるあの方」とやらが彼らを創ったのは、一匹一匹に名前をつけるためでは決して無いだろう。彼が言うのは尤もだ。
「ふーん」
名前が無いのは不便だ。呼び掛けるのに猫又とは、どうにも実用性が無い。そう思ったら、妙案が口を突いて出た。
「あんたの名前、私がつけていい?」
猫はこちらを振り向いた。
「名前」
「うん。だって、猫又っていうのがあんたの名前じゃないんでしょ」
「ああ。人が名づけた名だ」
「なら、嫌じゃないなら私が考える」
考え出したらすぐひらめいた。
「すず、は?」
「すず」
「うん、鈴。男でも変な名前じゃないと思うし」
彼の目の色を見ていたら、何故か金子美鈴と言う名が思い出され、彼女の有名な詩までが思い浮かんだ。だから、これで良いと思う。きっとこれ以上考えようとしたって、私の頭から他の考えが思い浮かぶ筈がない。
「すず」
「他がいい?」
「すず……」
彼は急に人の形になると、私は宙に浮いた。
「嬉しい」
彼は言う。
「嬉しい。私は鈴。私は鈴」
切れ長な目を細め、細く引かれた眉を開き、口元に美しい孤を描きながら彼は言う。私はすっかり放心した。私は所謂、「たかいたかい」をさせられている。見たところとても背の高い彼が、その長い腕で軽々と私の体を抱き上げ、振り回す。がっちりと脇腹を支える手の平だけが私の命綱らしい。
閉口していると、やっと彼は私の様子に気付き、すぐ私をソファへ下ろす。
「すまない」
目が回って気分は良くないが、怒りが沸く筈も無い。彼はずっと表情を動かさずにいたのに、いきなり満面の笑みを見せつけられれば誰だって驚いて、拍子抜けする。何しろ見かけ大の男である彼が、はしゃぐ姿は衝撃的だった。
「いきなりは止めて」
せいぜい言えたのはこれだけだ。彼は猫の姿に再び戻り、大人しく私の隣へ戻った。
落ち着くと、先ほど質問しようとした事を思い出して、私は言った。
「あんたって何の能力が使えるの」
「念力だ」
「それと?」
「それだけだ」
あれ。
「テレポートは?」
「念力の応用だ」
「へー」
どうやら彼の能力は一言で言い表せるようだが、その使用できる範囲は多岐に渡る様だ。
「詳しく言うと何が出来るの」
「念動、空間操作、時空操作、透視、読心、予知、物体構築……」
つらつらと、思い浮かんだ分言い出しそうだったので、思わず口出しする。
「もっとわかりやすく!」
「物質を動かす事が出来る。空間を操作して物や生物を移動させる事が出来る。時空を操作して物や生物を移動させる事が出来る。視覚に頼らず感知する事が出来る。生物の思考を読み取る事が出来る。未来を予測する事が出来る。物質から物体を作り出す事が出来る……」
そろそろ潮時と、再び彼の言葉を遮る。
「えっと。つまり、手も触れず物を動かしたり、テレポート出来たり……まあ、ある程度なんでも出来るんだね」
「そう考えて差し支えない」
なるほど。何せ、私を異空間に連れ出すぐらい、彼は化け物だったっけ。
「物体構築……物質から物体を作り出すって、この服を出したのも?」
私は袖の端を指で摘んでみせる。
「ああ」
「もしかして、ここに置いてある家具も?」
「ああ」
「へー」
あれだけ彼の能力を体感しておいて、まるで空想を語り合っているような心地だ。
「このマンションは借りたの?」
「まだ決まっていない」
「え?それってどういう……」
「法的にまだ認められてはいない」
「え!?」
「しかし心配する事は無い」
「だって法的にって。気付かれたら捕まるの?」
「それは無い。このマンションの所有者や住居者は既に洗脳してある」
どうやら彼の能力は私の想像を遥かに超えていた。
「洗脳って」
「念力を施せば可能だ」
そして、彼はすかさず言う。
「もちろん、あなたにはしない。それに、読心をしない以上、洗脳は出来るものではない」
見事図星をつかれた。
「そう」
私は今どんな顔をしていればいいかわからなかった。彼は私の感情を読み取っている。それにしたって、そうも適切に予測出来るのなら、それは彼の言う読心と何ら変わりないではないか。指摘されたのは不愉快だが、逆に指摘をされないのは気味の悪い事だったので、私が彼へ注意すべき事は無かった。
「それにしても、法的に認められてないって。契約してないって事でしょ?洗脳出来るなら、洗脳して契約もさせられるって事でしょ」
「そうするか」
平然とそう尋ねたのに面食らったが、なんとか一言返事する。
「うん」
「御意」
彼がそう言うので、何か行動に移すのかと待っていると、しかし彼は何もしなかった。沈黙が落ちる。
「契約……」
「した」
「え、もう?」
「ああ」
私は、彼と会話をしていただけだ。彼は隣で、ぴんと背を反らせて座っていただけである。理解しがたいが、彼はきっと私の言った通りにしてくれたのだろう。
「本当に、何でも出来るんだ」
ところで、彼に社会的立場は無いだろう。国籍は無いし、お金も無いだろうに。契約には名前以前にそれが必要だろうけれど、彼はその能力でどうにかしてしまったのだ。