さとがえり
4
玉藻の足音が遠く聞こえなくなった頃。見計らったかのように反対側の障子がすっと開いた。おや、と鵺野は目を見張る。
小さな女の子だ。
年の頃は8つか9つか。
動かなければまるきり日本人形のような外見で、黒い髪が首を傾げた拍子にさらさらと肩を滑る。
「こんばんは」
鵺野が声をかけると、びくっとして障子の後ろに引っ込み、再びそっと顔を覗かせる。
「あ…ごめんね、急に声かけて。ビックリさせちゃった、かな?」
少女はかすかに頷き、そしてちょっとずつ部屋に入り、鵺野の側まで歩み寄る。小腰をかがめると座布団に胡座な鵺野の目線とちょうど合った。改めて間近に見ると可愛いというよりは美しいという形容がふさわしい顔だった。
眉の少し上でまっすぐそろえられた前髪、そしてまなじりがほんの少しつり上がった大きく黒い瞳。あと10年もすれば…いや、5年も待たず花も恥じらう美しさとなるだろう。きっと出会う誰もが心を奪われるような。―そこまで一気に想像した自分をおかしく思いながら、改めて少女に目を合わせて優しく訊いた。
「お名前、なんていうの?」
その問いに、少女は顔を曇らせた。何故かひどく不満そうな顔になったのだ。
「…覚えてないの?」
少女は鵺野の予想を裏切らない鈴を振るような声でそういった。やっぱりきれいな声だなあと聞き惚れていたので、問われた意味を理解するのに少し時間がかかった。
「え…、覚えて…って?」
「…覚えてないのね」
その小さな姿に似合わない、どこか艶めいたなじり方に鵺野は面食らう。多分、いや間違いなく初対面のはずなのだが…と返事に窮するうち、彼女はぷいと部屋を出て行ってしまった。あまりにも突然の出来事に夢でも見ていたのだろうかと思うほどだ。
もしかしたら座敷童子の類だったのだろうか。しかしここは妖狐の谷…妖怪の住処にも座敷童子は居着くのだろうか、それとも寡聞にして知らないが妖狐バージョンの座敷童子でもいるのだろうか。
「なに、ぶつぶつ言ってるんですか?」
「うわ!」
形代(みがわり)からいきなり話しかけられ、鵺野は立ち上がり損ねて大袈裟に倒れ込む。あんまり静かに座っていたからすっかりその存在を忘れていた。
「……っ、声だけ飛ばしてくんなよな! ったく!」
形代は無表情に口を動かして「すみませんね」とそっけない。
「何かありましたか? 誰か来ていたような気配はありますが」
「ああ来てた。ここん家の子供だろうけど」
多分、と足元を払いながら付け足すと、「子供?」と訝しげに問い返されたが、人間である自分にそれ以上もそれ以下も分かるはずがないので無視をした。
「それよりもお前! 何やってんだよ。とっとと戻ってきやがれ」
「…今、部屋のすぐ前まで来てはいるんですが」
言われて耳をそばだててみれば、確かに形代とは反対側―廊下の方からも声が聞こえてくる。気配もある。
「あ、本当だ。じゃあ早く入ってこいよ、そんなところにいないでさ」
鵺野がそう言ったのにも関わらず、気配は動かない。短くない沈黙の後「…そうしたいのは山々なんですが」と、珍しく渋るような言葉が聞こえる。
「なんだよ」
鵺野は焦れったくなり、知らずに語気が強くなる。それに押されたのか、玉藻はためらいながらもさらに尋ねた。「怒りませんか?」
「……怒らねえよ、何か知らんが…」
「約束ですよ」
障子がすっと開き、玉藻が姿を見せる。その姿はほんの少し前とは打って変わった、見るも無惨なものだった。髪は乱れ、薄手のジャケットは皺だらけ。かろうじてネクタイはきちんとしてあったが、それでもよれよれとしてまるでラッシュに揉まれた後のようだ。
「げ…」
鵺野はそう呟くなり、言葉を失った。
「……運悪く、姉妹たちに捕まってしまって…、あ、言ってなかったかもしれませんが、姉と妹がいるんです。上が3人、下が2人…」
言いかけて、鵺野の視線が自分の衿元や胸元に集中しているのに玉藻は気づき、身に覚えがあるのだろう、そこを手の平で押さえて「これは不可抗力というより不慮の事故で…」と、口ごもる。確かに拭い切れていない紅の痕も鵺野にとって目の毒だが、それよりも匂い立つ香水だかおしろいだかの香りの方が気にかかる。
「いや……災難だったな……」
故郷に帰ってもなお周りが女だらけという玉藻の環境を、鵺野は羨むべきか同情すべきか判断しかねてそう声を掛けるだけに留めた。
「……妹たちなどは純粋に慕ってくるだけなので無下に出来ないんです。むしろ姉たちの方が知っている分たちが悪い」
玉藻は座敷内に戻ると、置いていた分身に手を伸ばした。手の平をかざしたとたんに小さな紙切れに戻ったそれを拾い上げて焼きつぶし、分身と同じに座布団に腰を下ろす。
「そうだ、たちが悪いと言えば九尾さまへの目通りは取りやめだそうです」
「取り止め? 今になって?」
さんざん待たされたのにそれはどういう事かと、流石の鵺野も眉をひそめる。
「詳しい話は聞けなかったのですが、なんでも急に都合が悪くなられたとかで―申し訳ない、気まぐれは我が一族のどうしようもできない性質ですから、諦めるしかないでしょうが…」そこで言葉を句切り、「でも、ちょうど良かったのではないですか? 正直、風呂にでも入ってゆっくりしたい気分です」と少し疲れた微笑みを玉藻は見せた。
「……同感」
労るような鵺野の表情に、そして珍しくすんなりと意見の一致を見て、互いに笑みを交わす。
「それでは行きましょうか、私の家へ」
ご案内しましょうと玉藻は立ち上がり、鵺野の背中を押した。