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さとがえり

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「着きましたよ」
心地よい浮遊感にまどろんでいた鵺野は、その低い穏やかな呼びかけに目を覚ます。いつの間にやら眠ってしまっていた…と気がついた途端、彼は慌てたように口の端を手の甲で撫でた。幸いにも涎などはついていなかった。
「…わり、ねてた………着いたんだ」
シートベルトを外し車から降り立つと、辺りは『逢魔が時』をいくらも過ぎない頃合いの色で包まれていた。視界の大半を竹林が占めていて、どこからともなく吹く風がさわさわと葉を揺する。
第一印象は随分と人気の無い場所だな、という事。近くに人家の明かりが見えなかったら、ちょっと近寄りたくない雰囲気だ。けれど身体を包む空気は清らかに澄んでいて、とても気持ちが良かった。
「んんー、つっかれたなぁ〜っと、長距離ドライブお疲れでしたっ。荷物をば運んで…って、あれ? ここにあった鞄とかは?」
後部座席に積んでいたはずの荷物の数々は見当たらない。玉藻はキーロックをしながら「もう全部運びましたよ。あとは先生だけです」と言った。
「…へいへい、大きな荷物で悪うござんした」
助手席にいながら居眠りこいて、ナビはもとより話し相手もできない自分は役立たずですよとしゃがみ込んで地面にのの字を書きはじめた鵺野だが、「いつまでもそうしているつもりなら、抱きかかえて行きますが?」という言葉に直立する。
鵺野の脳裏には新婚の花嫁よろしく抱きかかえられた自分の姿を想像してぶんぶんと頭を振った。酔っ払っているならともかく、大の大人の男として、しかも余所様の玄関口でそれをやられた日には末代までの恥だ。
「とんでもないそんな玉ちゃんにそこまで手を煩わせるわけには…さっ、いこうぜ!」
今すぐにでも実行に移しそうな玉藻から半身離れて、鵺野はさっさと歩き出す。
「そっちは逆ですよ」と玉藻からすかさず突っ込まれて「わ…わかってる!」と玉藻の後を追った。



「でけー門…」
案内された建造物を前に、鵺野はただ一言そう呟いて見上げるのみだ。
昔ながらの日本家屋といった風な造りで、入り口には角灯を加えた狐の像が据えてあるのがいかにもな感じで面白い。しかし立派とはいえこれは門であるから、ここで一々驚いていては本体である母屋に辿り着くまで身が持たないだろう。
「気を付けて下さいね」
玉藻が、呆然と立ち尽くす鵺野の背中へ呼びかける。
「見た目はどうあれ、ここから先は妖狐のテリトリーです。くれぐれも気を緩めないようにして、出来れば私から離れないで」
「それは…分かっている」
以前訪れたときは玉藻のことで必死だったからあまり気付かなかったが、あたりを妖狐の気配が立ちこめている。普通の人間ならば気付かないそれは屋敷全体を包み込み、一種おごそかな雰囲気を醸し出す。
「でも大丈夫なんだろう?」
「…よくよく考えると楽観的過ぎたかもしれないと思ったんです。何か…あると言えばあるし、ないと言えばないとしか答えられませんが…」
「そんなもんか?」
「そんなもんです」
玉藻の動きにつられ、再び離れた屋敷の屋根当たりを見るとはなしに見ていると、門の横の木戸がカタ、と開く。
「玉藻さま」
古風な提灯を提げて現れたのは石蕗丸だ。以前会ったときとは趣の異なる、しかし忍びのような、あるいは寺仕えの者のような墨染めの衣で、茶色がかった黒い耳と尾が提灯の明かりに動く。
「石蕗丸か。久しぶりだな」
「はいっ、玉藻さまもご壮健の様で何よりです!」
嬉々として挨拶を述べ、鵺野にも丁寧に腰を折る…のかと思いきやその場にぺたりと座り手を突いて、地に額をこすらんばかりに頭を下げる。思いもよらないことに鵺野も慌てて膝をついた。
「鵺野先生、本日は遠いところをようこそおいで下さいました。その節は大変お世話になりまして……」
「いっいやそんな! 石蕗丸くん困るよ…!」
年端も行かないように見える石蕗丸にそこまでさせるのは鵺野の気が引け、結果向かい合ったまま俺の方こそいや私の方がと言い合いを始めた。放っておけば夜を徹しそうな雰囲気に見かねた玉藻が間に入る。
「…礼もいいが、お前も言っていたように先生は長旅で疲れている。そろそろ解放してもらえないか?」
「ああっ! そうでした! 申し訳ありません!! 私としたことが…」
「いいから、案内を」
「はいっっ!!」
入ってきた木戸を一旦戻り、石蕗丸は大門を開ける。改めて「どうぞ」と耳をぴーんと立て、二人を誘導した。



「皆の衆! 玉藻さま、鵺野どのがお着きだ!」
「ようおいで下さいました。長旅でさぞやお疲れでございましょう」
「誰ぞ、はよう、はよう姫さまに先触れじゃ」

予定よりも少し遅くなったので挨拶は明(みょう)日(にち)にという玉藻の思惑は、大歓迎の一族たちを前にすっかりよそへ追いやられた。あれよあれよという間に九尾の屋敷へ連行され、そして客間とおぼしき一室に玉藻と二人して押し込められ、しかし「しばしお待ちを」と二度お茶と菓子を出されたきりなかなか取り次ぎがない。
退屈に溜め息も出尽くして貧乏揺すりを始める鵺野の隣で―不意に玉藻は立ち上がる。
「失礼、鵺野先生。少し席を外してきます」
「おいおい、そりゃないぜ。さっき自分から離れるなって」
「…用を足しに行くんですが、付いてきますか?」
「あ、そゆこと…」
「一応、形代は置いていきますね。…すぐ戻ると思いますけど」
彼は札入れから懐紙のようなものに包まれたものを取り出す。
一見子供の紙遊びのような『それ』は、玉藻が己の長くきらめく一本の髪を結わえて畳の上に置き、ふっと息を吹きかけると見る見るうちに玉藻自身と寸分違わぬ姿になった。
「なにかあったらそれで呼んで下さい。ある程度ならば持ちますから」
形代が座布団に座るのを見届けてから、そう言い残して玉藻は部屋を出て行ってしまった。

作品名:さとがえり 作家名:さねかずら