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さとがえり

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「……」
夢に見るほど、印象的な少女だったっけか、と頭を掻きながら鵺野はぼんやり思う。今ひとつ睡眠が足らない気がするが、それは夜中の散歩のせいだろうと自分を納得させる。
枕元に置いた携帯を見るといつもとあまり変わらない時間。休暇中だから長々と惰眠を貪ってもいいはずなのに、違う環境で泊まったという緊張感は肉体的な覚醒を促す。
「おはようございます、玉藻さま。鵺野先生も、お目覚めでいらっしゃいますか?」
縁側の方から声がする。
石蕗丸だ。
朝の淡い光線が、耳と尻尾つきの小さな影を障子に描き出す。
「もう、直(じき)に朝餉の支度が調いますので…」
続く言葉に鵺野は返事をしなければとは思うのだが、かろうじて半身を起こしている体はともかく脳は未だ睡魔にしがみついた手を離そうとはしない。返事とも溜め息とも呻きともつかない微かな音声を吐くのが関の山だった。
すぐ近くで含み笑いと衣擦れの音と共に、玉藻が「身支度を調えてたら直ぐに行くから」と返事をしている。石蕗丸は「かしこまりました」と応えて下がっていった。
玉藻は起きあがると少し着崩れた寝間着のまま鵺野の側にひざまづく。軽く肩を揺すって「鵺野先生」と声を掛けた。
「鵺野先生、……ちゃんと起きてますか?」
「んー……おきた…と、…おもう…」
ふにゃんふにゃんとした返事には、玉藻ならずともつい笑ってしまうだろう。
その笑い声に、鵺野の意識が本格的に覚醒する。
「…お前は? …なんだ、元に戻ってるのな」
「ええ、一晩眠ったおかげでこの通り。それよりも朝食が出来たそうですよ、せっかくですからすぐに行きましょう」
「判った。着替える」
ずるずると解けた帯やら着物やらを適当に脱ぎ散らかして、これまたボストンバッグの中から適当に引っ張り出した濃紺のコットンパンツと黒いTシャツに身を包む。ベルトの位置を調節しているときに、くしゃくしゃに放置された寝間着を拾い、手早く畳んでいる玉藻の姿をとらえた。
「あ、スマン…」
「いいですよ。それより顔でも洗ってらっしゃい。目やに付けたままではみっともない」
「へーいへい」
「そこを出て、左手のつきあたり直ぐですから」
「おっけーい」
バッグから洗面具一式を引っ張り出し、タオルを首に掛けて教えられた通りにある洗面台に立つ。
「あー……髭…は、いいかな?」
顔を洗いながら顎を撫でる。元々男にしては薄い性質なので休日の1日くらいはどうという事もない。
「玉藻ー、済んだぞーって、…あ」
ちゃっちゃと洗顔、歯磨きを終えて、元の場所に戻ると、玉藻はすっかり着替えていた。
「早かったですね」
ホワイトジーンズに生成りのTシャツ。振り向いた背中や肩を結わえられてないままの髪の毛がなだらかに滑る。
その背景では布団も荷物も、きれいさっぱり片付けられていた。
「…重ね重ね、スマンこって…」
鵺野は自分のだらしなさというよりは気の効かなさに、めいっぱい恐縮をする。しかしそんな事は『よく有る事』なので、玉藻は少しも気にしない。
「いいんですよ、ここでは貴方は客人ですから。さて、では私も…少々お待ちを」
「あ、そうだ玉藻。剃ってたがいいと思うか?」
自分の顎を指さして、参考までにと尋ねる。
「…それくらいなら、九尾さまの所に行く前にでもいいんじゃないですか?」
「ふむ……それもそうだな、休暇中だし…ほい、タオル」
「どうも」
何気なく見送る玉藻の後ろ姿に、微かな違和感を感じて鵺野はその背中を見つめた。そう、時々見送る後ろ姿と言えば白衣の背に流れる結わえられた一筋の淡い金髪。青いTシャツに半袖シャツを羽織る後ろ姿はめったにない。
玉藻はその視線に気付く風でもなく、細長いくちばしのようなクリップで背中を覆っていた髪の毛を手際よく一つにまとめて洗顔していた。それが終わるとクリップを外し、淀みないブラッシングの後はいつもの如く結い具で後ろ一つにまとめている。
(うーん、珍しいモノを見てしまった気がするな)
いつも玉藻は身綺麗にしていたが、こういう風景は日頃わざわざ見る物でもないので新鮮だった。
(そうだよなぁ、身体は一応、仮とはいえ人間だしなぁ)
そんなことを思いながら見ていると、歯ブラシの音もリズミカルに終えて、くるりと振り向いた玉藻と目があった。
「…ずっと見てたんですか?」
「見てた。お前、器用だとは知ってたけど…あの髪の毛くるくる〜ってするやつ、面白いな」
「これですか? しょっちゅうしていれば慣れますよ」
タオルに挟んでいた金属製のクリップを取りだし、かちかちと鳴らしてみせた。近くで見ると、黒ずんだ色の金属がいっそう猛禽類のくちばしを思わせる。
「夏の間だけでもずっと留めてればいいのに。……その方が涼しくねえ?」
「確かに涼しいですが、仕事場はどこへ行っても涼しいですし、女医と勘違いする輩が出ますので普通はしません」
「……ま、まあ…体育会系なんかだと、女性でも体格いいからなあ」
「ちっともフォローになってませんよ、それは」
喋りながら玉藻の後をついて、昨夜飲めや歌えや(実際には歌わなかったが)の座敷に到着した。
「おはようございます、玉藻さま、鵺野先生」
石蕗丸が真っ先に気付き頭を下げる。
「ああ、お早う」
「おはよう、石蕗くん」
猫足の座卓の上座には、既に青柳が定位置に座っていた。昨夜とほとんど変わらない出で立ちで、湯飲みを片手に新聞なぞを熱心に読んでいる。
「お早うございます、父上」
「おはようございます」
促されるまま玉藻の隣の席に座って鵺野も挨拶を述べる。
「おはよう、玉藻。鵺野先生も…よく眠れたかい?」
「ええ。でもなんか枕が変わると眠れないというか何というか…」
「あはは、それは仕方がないねぇ。ここは先生のような人間にとっては、いわばアウェーなんだからねー」
そういう会話をしている間にも、石蕗丸と給仕と思しき少女とが忙しく膳を調えていく。少女も石蕗丸と同じく耳と尻尾があり、耳はヘッドドレスに、尻尾は前掛けに隠れて殆ど見えないがレトロなカフェの女給さんといった雰囲気がとてもいい。あごのラインで切りそろえられた髪から見える横顔は無表情だが、黙々とよく働いている。外見年齢は石蕗丸と同じくらいだろうから、実年齢も同じくらいだろうと鵺野は推測した。
こっそりと仕事ぶりを観察してみれば、やはり玉藻のことを慕っている娘なのか、こころなしかサーヴィスに差があるように伺えた。
一方玉藻は、昨夜と違って機嫌が良く、青柳と鵺野との他愛のない会話にちゃんと加わりながら食事をしている。
食事は昨夜ほどの豪勢さはなく、純粋で控えめな和食だった。藍色の絵付けがなされた茶碗に白いご飯。角切りの油揚げと豆腐にワカメとネギを散らした味噌汁。鮮やかな色のままに焼かれた卵焼き。数種類の浅漬けに、大根おろしを添えたイサキの塩焼き。
特に物珍しいものではなくて、ごくごく定番メニューだが、それがとても鵺野にとっては嬉しくて、感動して、うきうきと箸も進んだ。


「青柳さま。お召しにより参りました」
作品名:さとがえり 作家名:さねかずら