【C】 少年進化論
「やあ、邪魔したかな?」
笑いを堪えた声で言いながら、三國さんがこちらへと近づいてくる。
「あ、いや・・・べつにそんな事、ないけど」
はっきりと返せないのは、今だに掴まれたままの胸元から腕が離れないから。ちらと真朱のほうを見れば、いつの間にかこちらを見ていた目と目が合い、途端にすごい勢いで睨まれた。
「う、なんだよ・・・」
正直、そこまで怒られるような事を言ったつもりはなかったので、戸惑うしかなく。しかしそんな態度が気に入らないのか、猫のような切れ長の瞳がさらにつり上がり。
「・・・知らないっ!」
真朱は一言叫ぶと、顔を背けてフッと姿を消した。
「訳分かんねー、なんだよアイツ・・・」
ポケットから取り出した鈍色のカードを見つめていると、ふいにその上に影がかかる。 見上げると、微笑ましいものを見るような顔でこちらを覗き込む三國さんの姿があり、今のやり取りを全部見られていたのかと思うと、途端に羞恥が湧き上がってきた。
「ほんとに君らは、仲がいいんだな」
赤くなっている顔に気づいているはずなのに、揶揄いなのか、ほんとうにそう思っているのか判断のつかない言葉をかけてくる。
「べつに、仲良しってわけじゃないし、・・・今だってケンカしたし」
どう答えればいいのか分からなくて、思わず反発するような子供のような返事をしてしまい、ますます羞恥に顔が熱くなった。
「ケンカするほど、とよく言うだろ?それにあんな風にアセットと言い合いするアントレなんて初めて見たよ」
とくに怒るでもなく、かといって揶揄うでもなく、むしろ宥めるようにそう言われてしまって、大人な男の対応にほっとすると同時に悔しいとも思う。彼と自分ではその地位はもちろん、経験も年齢も違うのだから仕方ないことだと理解はしているつもりだ。そのつもり、だが、感情が納得しない。
そんなこちらの感情に気づいているのか、いないのか、三國さんは人一人分のスペースを空けて隣へと腰を降ろした。
「聞いたよ。他のアントレと揉めたんだって?」
思ったより元気そうで安心したよ、と突然切り出された言葉に驚いて、音が出そうなほど勢いよくすぐさま隣へと視線を向ける。
「なんで、知って・・・」
喉が乾いて声がうまく出てこない。なんで、と疑問ばかりがぐるぐると頭の中をまわった。混乱する自分を見てどう思ったのか、三國さんが「そんな顔をするな、べつに怒っているわけじゃない」と苦笑しながら、視線を外して上を見上げた。つられるようにして見ると、ただ赤いばかりの空が広がっている。
「竹田崎が面白半分に話を持ってきただけだ、君が市内の屋台で乱闘騒ぎを起こしてる、とな」
さっきの質問の答えなのか、話し出す三國さんの声に怒りはない。気になってまた視線を向けて伺ってみるが、その横顔からは彼がどんな感情を抱いているのか分からなかった。
「俺はその話を聞いたとき、まさか、と思ったよ」
じっと見ていたら、淡々と話していた横顔が急にこちらを振り向いた。真っ直ぐに視線が向けられて、驚いて今度は逆にこちらが上を見上げて、横顔を相手に晒すことになった。
「ディールの最中でさえ対戦相手を傷つけることを躊躇う君が、いきなり殴りかかって多人数相手にケンカしているなんて、想像できなかった」
相変わらずその声にどのような感情が込められているのかは分からなかったが、その言葉は耳を塞ぎたくなるほどに、心を締めつけた。金融街でなにかと行動を共にすることが多く、何度も助けられた。真朱以外で、ここで自分を助けてくれたのは、この男だけだ。
そんな相手を、失望させてしまったのだろうか。
そう考えると、じわりと目が熱くなってきて慌てて顔を下に向けた。説教されているわけでもないし、そこまで子供なつもりもない。なのに、自分でもうまく処理できない感情に今にも泣いてしまいそうだった。
「・・・だから、なにか理由があると思った」
ふいに、その声が優しいものに変わったと思った瞬間、同時に頭にふわりとしたものが乗せられた。何度も行き来するその感触に、それが三國さんの手だと気づく。
「こんなに優しい君が、その相手を許せないほど、なにか大切な理由があると思った」
声も、言葉も、その手の感触も、全部が優しさに溢れていて、堪えていた涙がぽろりと零れおちた。悲しいのか、嬉しいのか、自分でも分からない。全部の感情がぐちゃぐちゃになって、流れているような気がした。でも、そんな子供のように泣く自分をこの男に知られたくなくて、慌てて隠すように膝に顔を埋める。
「それが知りたくて、君のところに来たけれど・・・まあ、でもなんとなく予想はついたよ」
最後のセリフは笑い混じりに言われて、妙に引っかかった。涙は落ち着いたが、今顔を上げても絶対目が赤いので膝に顔を押し付けたまま「・・・なにが?」と聞いた。
「・・・アセットのため、だろう?」
思いもよらない近くから低い声が聞こえて、驚きに思わず顔を向けた。するとすぐ間近、一人分あったスペースをいつの間にか埋めて、吐息さえかかりそうなほど側までその整った顔が向けられていた。突然の近すぎる距離に体が硬直し、思考が止まる。
そんな自分に構わず、伸びてきた指先が優しい仕草で目元を拭う。
「君が怒るなんて、誰かの為としか考えられないからな。自分のことならそのまま見ぬ振りをするだろう?」
笑う顔が、覗きこむようにさらに近づいてくる。その距離の近さに眩暈がしそうだった。なにか言い返したいのに、言葉が、声が出てこない。
コツン、とお互いの額が重なった。
「でも、覚えておくといい。君が思うほど、君のアセットは無知ではないし、鈍くもない。常に傍らにいて君をみて、想っている・・・・・・彼女は、君自身だ」
言葉は馴染むようにすっと耳にはいってきて、溶けるように体のなかに消えていった。
その言葉の意味は、よく分からなかったけど。でも、それが真実なんだとなぜか確信に近いものが自分の中でそう囁いた。