誘惑の果実
鬼笑心中顛末記
遠くでサイレンの音がする。その忙しない音に、やっとすべてが終わったのだと感じた。
暗く闇に沈んだ部屋は苦悶の声と地の臭いに満ちている。すべて華鬼が行なったものだ。悪鬼の形相で並み居る鬼達を薙ぎ倒した華鬼は、最後に神無をそっと抱き上げて去っていった。それまで神無を抱き締めていた桃子は何も言うことができなかった。今更恨み言を言いたいわけではない。かと言って謝罪を華鬼に言うこともまた何か違うような気がしていた。
ぽっかりと胸に穴が空いたような空虚な気分で血腥い部屋に座り込んでいた。
「終わっちゃった」
ナカに噛まれた腕を止血のために縛り上げていた国一が怪訝そうに顔を上げたが、説明する気は無かった。
桃子の目の前に倒れ付していた響が呻くように嗤った。実際呻いていたのかもしれない。彼が今回の事件で最も大怪我を負っていたのだから。怒り狂った華鬼により大腿骨や上腕骨といった太い骨を折られたというのに気も失わずにこうしているのは流石鬼というべきなのか、あるいは響のプライドのなせる技なのかは桃子には計り知れないことだった。
知らず知らずの内に大きな溜息が喉から突いて出た。
「もう、何か全部がばかばかしい」
神無を恨んで過ごした四箇月は一体何だったのだろう。すべてが見当はずれで虚しく愚かな行動だった。
「死にたいか?」
冷ややかな声だった。
「なんで?」
「そんな顔をしている」
見下ろした響の表情は意外にも静かで、暗い部屋の中にあってもそれとわかる眼差しの強さに桃子はたじろぐように目を逸らす。胸の奥がしんと冷えた。呵責で穴があれば埋まりたい心境だったが、自殺を望みはしない。そんな勇気もない。それにそれがなんの解決にもならないことを知っている。ゆるゆると首を横に振った。
「もっと建設的なことをしたい」
ふ、と今度こそ響は笑いを漏らした。
「つまらないな。桃子と心中しそこねた」
「なあに。あんたでも今回の一件で懲りたの?」
悔恨なんて知らなさそうな涼し気な顔が心中なんて言うから可笑しくなった。隣の国一はあからさまにぎょっとした様子を見せていた。
華鬼に痛め付けられても尚、戦闘の意思を見せていた響の思いがけない言葉。ばきり、と乾いた音を思い出すとぞっとする。人の骨があんなに呆気なく折れてしまうものだなんて知らなかった。部屋に満ちた呻き声は全てその結果だ。翻って桃子は腕の噛み跡以外はきれいなものだった。腕の傷だってそれほど深いわけではない。
国一が丁寧に巻いた白い包帯は暗い部屋の中で浮かび上がるようだった。その縁に長い指が掛かった。
「なに」
指を動かすのだって辛いだろうに、響は微かにとは言え指先を動かして桃子の指に触れた。思わずその熱を帯びた指を握りしめる。
「懲りたのは華鬼に対してじゃない」
そんなもんじゃない、と響が意味ありげに目を細めた。熱い指が桃子の手の中で微かに揺れる。外見とは裏腹な熱に胸の奥の冷えきった部分も溶けるような思いがした。
サイレンの音がふつりと止み、開け放たれた扉からばたばたと気忙しい複数の足音が近付いて来る。なぜだろうか。絡めた指を解く気にはなれなかった。