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綾沙かへる
綾沙かへる
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そは、やはらかにながれゆくもの

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いつまでこうしていられるのかな。
本当に、些細な事で零れた言葉。
「…望む、限りは。」

それが叶わない事だと判っていた。
けれど、あの時の僕にはそれで充分だった。


 最初にそこで目を開けた時、世界は真っ白だった。瞼は確かに動いた感覚を残しているのに、目を開けたのかどうかも分からない。全ての感覚がぼんやりとした薄い幕の向こう側にあるような、曖昧な世界。
 緩く呼吸をする。一度瞼を綴じて、ゆっくりと押し開く。
 変わらない。
 酷く静かで、温かな光に溢れた世界。緩やかに頬を撫でて行く風も、時折遠くから聞こえる鳥の囀りも、遠くて近い、不思議な感覚。
 綺麗な世界だ、と唐突に思う。今まで自分がいた場所は、真っ暗な宇宙で。星の瞬く漆黒のそこから、いつどうやってこんなに光溢れる世界に来たのだろう。
 途切れた記憶。
 成すべき事を終えて、目を閉じた、そのあとのこと。
 知らない。分からない。けれど焦る事もなく、とにかくなにかが終った、その安堵感だけがキラのなかではっきりとしていた。
 真っ白だった世界に、不意に影が落ちた。歪んだそれが、誰かの顔だと気付く。その誰かがなにか言っている。それが聞こえなくて微かに眉を寄せて意思表示すると、その人は微かに微笑って頬を撫でた。
 突然現われた誰かに、知らず強張っていた身体から力が抜ける。触れた指先の温もりを、知っている。
 もう一度、ゆっくりと瞬きをする。
 幾分はっきりとし始めた視界のなかで、その人は苦笑混じりにおはよう、と言った。
 相変わらず頬を撫でる指先が心地良くて、折角おはようと言ってもらったのに瞼が重たくなった。
 それよりも、きっと言わなければならない事があるのに。
 緩やかに、けれど強く引かれて意識が次第に薄れて行く。
 未だ疲労の回復しない身体は、休息を欲しがっているのか逆らう事が出来ない。
 言いたい事があるのに。
 あなたに。


 相変わらず忙しない場所だな、と思う。それでも通常の半数しか整備士の姿はない。修理中の機体がある訳でもなく、今の所戦闘配備にある訳でもない。いつ何が起こってどうなるのかが全く読めない状況の中、少しでも休める内に人員を温存しているのだろう。
 これだけの広さと設備、人員を整えながら、この艦には整備するべき機体は二機しかない。本来ならば五機搭載可能だった筈の艦。それをここまで減らしたのは自分の所為でもあったりする。改めて辿った道を振り返ると、思わず乾いた笑いが零れた。
 どのくらいの時間が流れているのか、漆黒の宇宙では掴み難い。時間の流れはデジタル表示の時計と、時折入る艦内アナウンスと、自分の摂る睡眠と食事の回数位でしか計れない。それの示す通りに、成り行きでパイロットを務める事になった機体の定期メンテナンスをするためにここへ足を運ぶ。成り行き、と言うと些か語弊があるのかも知れないけれど、今まさにここにいる事自体がそうとしか言えないのだから妥当と言えば妥当だった。
 宇宙は、気温が低い。低いとかそう言うレベルの問題ではない程の、氷点下の世界だ。例えこの艦が厚い装甲に守られた最新鋭の戦艦だとしても、居住区に比べて格納庫はどうしてもそう言った快適さに欠ける上に、加熱した機体を収容することも多い所為か、この艦の中に限って言えば各段に気温が低い。何もしないでいれば肌寒い、と感じるのかも知れないそこで、例外が二人いる。
 一人は最初からこの艦に乗っていた地球軍の士官で、いつでも何処でも制服の袖が半分捲くり上げられている。もう一人は、邪魔だとかなんとか理由を付けて、借り物のオレンジ色のジャケットを放り出している自分だ。
 いつものように自分の駈る機体のシステムメンテナンスを終えて、狭いコックピットから半身を乗り出すと、目の前を漂っていたジャケットの向こう側に小さな背中を見つけた。普段なら別の艦にいる筈の小柄な背中は、幾人かの整備士と言葉を交わしたあと格納庫の隅に緩く漂って行く。視線だけで追ったその先には、シートがかかったままの、恐らくは戦闘機がある。見た事がないから想像の域を出なかったけれど、いつだったか誰かが地上用の支援機だと教えてくれた。
 その前に佇んで、ただなにもせずそれを見詰める背中。
 システムをスタンバイにしてコックピットを出ると、キャットウォークの手摺りで勢いを付けてその細い背中に向かった。ついでに、漂っていたジャケットを掴んで。

 まだ、ここにある。
 ごわついたシートの下には、かつて友人が夢見たものがある。夢ではなく、実際にそれを操って戦場で命を落とした友人。
 自分が、目の前にいながら助ける事の出来なかった命。
 それはその時粉々になってしまったけれど、それと全く同じものがここにある。規格商品なのだから見た目が同じなのは当たり前でも、乗り手に合わせて少し手を加えたから全く同じ物ではない。それでも、これがここにあれば、嫌でも思い出す。
「…地上支援機、だってな。」
 唐突に掛けられた声に、軽く振り返った。何時の間にかそこにいる事が当たり前になってしまった人に、そうですよ、と頷いて。
「これはフラガ少佐用にカスタマイズされた機体です。」
 ここでは出番ないですけど、と続けるとディアッカはそりゃそうだろと笑った。
 そうであるようにどれ位の努力を必要としたのかは分からないけれど、フラガはなんでも乗りこなす。そのほとんどが専用機で、ときどきナチュラルである事を疑いたくなるほどの腕前で。
 いつからだろう、と思った。そうやって飛ぶ姿が。
「…綺麗だろ。」
 隣りに立った人が突然自分が考えていた事を言葉にしたから、驚いた。
「…なんで」
 呆然としながら問い掛けると、ディアッカは笑った。
「オレもそう思うから。」
 悔しいよなあ、と彼は言う。
「…そうかな。」
 僕は羨ましいけど、と言ったら、ディアッカは軽く肩を竦める。
「まあ、確かにあの人の飛び方は綺麗だけど。そんな余裕、ないだろ今。」
 言われなくとも、余裕がないことは分かっていた。恐らく、世界中の誰もが。
 それでもどうしてそう思うのか、その度にここでこうしてシートがかかったままの機体を見上げてぼんやりとした問い掛けを繰り返す。
「なんでそう思うか知りたい?」
 視線を合わせることなくディアッカは言った。
「…分かるの?」
 その答えに、唇を微かに上げただけで。
 指先が触れる。
 弾かれたように上げた視線の先で、ただ苦笑を浮かべたディアッカは、不意に少し低い自分の視線に合わせるように長身を屈めた。触れた指先は、大きな手のひらにしっかりと納められる。
「…あの人は、絶対に帰って来るって思ってるからさ。」
 多分な、と続けた菫色の瞳は、怖い位に真剣だった。
 自分が、何を想って戦場に立っているのかを見透かされているようで、怖かった。

 繋いだ手のひらから、小刻みに震えが伝わる。それが、自分の考えている事が正しかったのだと確信をくれる。
 キラは強い。この細い腕が操る機体も、キラ自身の計り知れない能力も。確かに強いのだけれど、同時に酷く脆さを感じる。