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綾沙かへる
綾沙かへる
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君の隣で、夜が明ける。02

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どうしてこんなにドキドキするんだろう
戦場に出る時とは違う
どこか暖かな鼓動の早さ

ただ、目に映るだけで



 一時の休息。誰もいない筈の格納庫に、小気味良い足音が響く。
 誰もいないと思ってここに来たと言うのに、先客がいた。月明かりだけの、一種幻想的にすら見える室内で、独特のリズムを持って響く足音。走りまわっている訳でもなく、ただ歩いているようにも聞こえない、聴いた事のない音。
 邪魔をしてはいけない、と本能のようなところで感じた。
 これはきっと崇高な事。だから、自分がここにいると言う事を悟られてはいけない。
 それでも、その音の主が誰なのか気になって、そこかしこに積み上げられたコンテナの間を、音のする方へと近付いて行く。自分の足音が気になるから、靴は脱いだ。金属の床は裸足には冷たいけれどそれを我慢して、恐る恐るコンテナの向こう側を覗くと、足音の主がいた。
 高い天井の、そこだけ切り取られた天窓の先を見上げて、目を閉じて。
 工業地帯のはずなのに、今夜はとても静かだった。だから、少し距離のある場所に立つその人が、静かに呼吸する音すら耳に入って来る。波の音と混じって、そこだけ1枚の絵のように見えた。
 緩やかに膝を曲げて、今度は滑るように動き出す。微かな衣擦れの音以外、足音も聞こえない。柔らかに動く、と言うよりも一連の流れは舞っている様にキラの目に映る。時に早く、時に緩やかに。指先まで気を配って、真っ直ぐに前を見て。
 綺麗だな、と思う。
 不意に、固い音が響いた。あまりにも目の前の光景に夢中になっていて、持っていたはずの自分の靴が指から摺り抜けて、足元に転がっていた。マズイ、と思った時には遅く、視線を上げるとその先にいた人はしっかりとキラを見ていた。
 「あの、ごめんなさい、邪魔しちゃって…」
 そう呟くように言うと、険しい表情を和らげたその人は、少し困ったように笑みを浮かべる。ゆっくりと近付いて来て、そっとキラの頬に触れた。
 「…何、泣いてんの?」
 そう言われて、初めて頬が濡れている事に気付いた。


 眠れない夜は誰にだってある。
 その日もなんとなく寝付けなくて、静まり返った部屋を抜け出した。隣りのベッドにある筈の姿がなく、彼も何処かでやはり眠れずにいるのだろう、と思ってそのまま出てきた。片手に、ひとさしの扇を持って。誰にも邪魔をされない、広いところ。
 ただ、久し振りに舞いたいと思ったから。
 神経が昂ぶっている時には、師匠の言葉を思い出す。静を知るには動を知り、動を知るには静を知る。心を無にして、ただ緩やかに、その、見える物だけではなくその先へ。
 趣味にしてはのめり込んでいるな、と自分でも思う。師匠から譲られた扇を、いつでも持ち歩くほどに自分にとっては日常の中の自然な行動。細い銀糸のような髪が顔にかかるのも構わずに年季の入った本を読み耽る姿や、何日も部屋に篭って無機質を相手にする友人や、机の上でも鍵盤を叩く少年と同じ。
 広い場所、と思いながら通路を歩いていると、格納庫に突き当たる。珍しく照明が落とされて、人の気配はしなかった。ドアの横にあるパネルを操作すると、ロックは簡単に解除出来た。元より、パイロットであるはずの自分が、非常時に自分の機体までスムーズに辿り着けなければ意味がなく、複雑なセキュリティにはなっていない。
 照明を点ける気にもなれず、暗闇に慣れた目で障害物を避けて進む。ぼんやりと明るい場所がその先にあった。見上げると天窓が採られていて、冴え冴えと輝く月明かりがガラスを通して床に冷たい光を落としている。
 そこで、姿勢を正して座った。背筋を伸ばし、心を正す。目を閉じて、呼吸を整える。師匠の言葉を思い出して、心と身体の準備をすると、意識せずとも滑るように動き出す。無心を続け、半人前の自分が思い描く師匠の姿を追い続ける。
 ぴんと張った神経。
 夜の冷えた空気の中を、裂くのではなく、柔らかく撫でるように腕を伸ばし、足を運ぶ。
 それが予告なく響いた固い音で途切れた。けれど、邪魔をされたと怒るより先に、音を立てた方に視線を向けて驚いてしまった。白い月明かりのなかで、印象的な濃紫の瞳を一杯に見開いて。その青白い頬を、銀色の雫が一筋伝って、虚空に消えていく。
 ごめんなさい、と小さく呟いた少年は、自分が泣いている事に気付いていないらしかった。緩く溜息を吐いて半分開いていた扇を閉じると、キラの方に向かって歩を進める。
 壊れ物のようなその頬を柔らかく拭って、なぜ泣いているのかと聞いたらそこで初めて開いては気付く。
 「…変なやつだな、相変わらず。」
 そう言って笑うと、キラは乱暴に目を擦ってそんなことないですと言った。
 「あなたが、綺麗だったから。」
 正面切ってそんなことを言われると、さすがにかわしきれずに苦笑した。


 綺麗なものに飢えているのだと気付く。
 自分の両手が、誰かの血に染まって汚れてしまってから、殆ど無意識にそれを求める。
 目の前にいる、同じパイロットで、多分誰かの命を奪っているはずの人にさえそれを求めて、見出して。
 冷たくないか、と唐突に言われて思考を現実に引き戻す。
 「…足。ああ、俺は慣れてるけどさ。」
 意識してみれば、とっくに指先の感覚はない。ジワジワと響くような冷たさが這い上がって来て、床から少しだけ足を交互に浮かせていたはずなのに、見蕩れている間に忘れていたらしい。
 「…冷たい…」
 そうだね、と言って月明かりの落ちる場所へと歩き出す。どの位時間が過ぎて行ったのかは良く解らないけれど、天窓から見える空が星と暗闇だけになっていた。
 「…あーあ、見えなくなっちゃった。残念、部屋からはまだ見えるのかな。」
 そう呟いて、その余韻を感じるように目を閉じて。
 「…さあな。」
 置き去りにされたキラの靴を拾い上げて、ディアッカは呟く。
 その言葉に、つまらないね、と返して。
 「…太陽の方が似合うと思ってた。」
 その、金色の髪が強い光を反射して輝く様子を想像してみると、命の強さや潔さを表しているようで眩しかった。けれど、銀色の柔らかな光のなかで立つ姿は、彼の本来の姿のようにも見えた。少し、認識を訂正する。
 「どう言う理屈だよ。」
 苦笑混じりにディアッカは言って、癖なのか扇を開いたり閉じたりしている。それも新しい発見。
 なにかひとつ知る度に、心地良い鼓動が次第に早くなっていく。そうしてその高鳴りとは逆に、酷く切なくて苦しくもなる。そんな気持ちは、知らない。
 俯いたままのキラの視界に、自分が放置して来た靴が揃えて置かれた。
 「ほら、風邪引くぞ。いつまでぼんやりしてんだよ。」
 困ったやつだなとでも言うように、ディアッカはそう言った。仕草で座るように促されて、素直に床に足を投げ出した。なんだか考えるのが面倒になって、キラはそのまま仰向けに転がる。
 「…このくらいで風邪なんか引きません。」
 何時の間にか火照っていた頬が、冷たい床に当たって気持ちがいい。
 なにかを考えたくて、なにかを忘れたくてここに来たはずなのに、そんな全てのことがどうでもよくて。ただ、この時間がゆっくりと流れて行くことを楽しんですらいる。