君の隣で、夜が明ける。10
一般には拒食症と言った方が通りがいいその病気は、精神的なストレスが原因だと言われている。いくら医療技術が進歩しようと、心の病気に関しては、大して変わってはいない。せいぜい薬品によって必要な栄養を身体に強制的に送り込んで、生命維持に勤める程度で、後はカウンセラーとの根気のいる対話だけだ。本人に病気であると言う認識が薄く、原因が何処にあるのか自分でも理解出来ていない場合が多い。
毎日顔を合わせる家政婦や、アスランの部下らしい青年は薄々感付いているのかもしれなかった。何か言いたそうにする度に逃げ出してしまうのはキラで、彼らはけして悪くはなくて。いずれ、アスランの耳には入ってしまうだろうと言う事も分かっている。
心配を掛けるのが嫌で、そもそも心配して貰うほどの資格も無くて、だから黙っているだけで。
誰にも会わずに、誰とも会話をせずに、ただ閉じ篭っているこの部屋の窓から見える世界は酷く遠く見えた。
その日は珍しく朝から雨が降っていた。
プラントは宇宙空間に浮かぶ人口の建造物で、当り前だけれど決まった時にしか雨は降らない。天気予報は正確で、確実に翌日の天候を知らせる。人が操作して決めているのだから当然と言えば当然だったけれど。担当者の気まぐれか、決まっているのか分からなかったけれど、その日は朝から夕方まで雨が降ると言う予定が流れていた。実際に、曇った空から雨が降っていて、景色は霞んで見える。
そんな窓の外をいつものように眺めながら、キラは窓辺に椅子を引っ張って行って、そこで何処からか見つけて来た本を読んでいた。
月で生まれて、ヘリオポリスで育ったキラにとって、地球で体験した雨の日や、嵐の日は新鮮だった。雨の日は用がなければ外に出る事もなく、母親と一緒に窓の外を眺めていただけ。そうでなくとも、殆ど濡れる事のないように歩道が整備され、各家庭の駐車スペースは全て屋根がついていて、傘をささなくても外は歩ける。
だから、地球に降りて初めて雨に濡れると言う体験をしてから、キラは雨の日が好きになった。いくら低く垂れ込めていてもけして届く事のない灰色の雲から落ちてくる雫が、血に濡れた身体を洗い流してくれるような気がした。そう思えば、いくらか気分が軽くなった。
本を閉じる。
窓の外、ガラスに当って跳ねる水飛沫が、そんな感覚を呼び起こした。
目を覚ました時から軽い眩暈が続いていて、本当は動く気もしなかったのだけれど、どうしても、直接その水飛沫を触ってみたいと思った。
静まり返った廊下をゆっくりと歩いて、いつもの様にテラスから庭に降りる。雨の日だと言うのに、テラスに続くガラス戸は開け放たれていた。テラスにはガラス張りの屋根があって、雨が当って跳ねる音が静かに、けれど忙しなく、途切れることなく聞こえる。
思ったほど気温が低いわけでもなく、夕方には雨が止む事も知っている。そんなに長い時間でもないから、構わないかなと思って、テラスの先から手を伸ばす。細かな水飛沫が手のひらで跳ねる。溜まった水は、腕を伝って肘からテラスの床に落ちる。
裸足で、いつもは暖かく感じる柔らかな芝生の上に足を下ろすと、冷たく濡れた草が張り付いて来てくすぐったい。
考えても答えの出ない難しい事は、頭の片隅に追いやられてしまった。
脳が働く為には、相当の栄養分を必要とする。食事を取らないキラには、思考する為に必要な栄養素が足りていない。だから、考える事は単純な、幼い子供のような事ばかりで。
水が冷たい、とか草が張りついてくすぐったい、とか。
庭の真中で、空に向かって顔を上げて、目を閉じる。
これは好き。
頬や瞼を伝わって行く水の感触を楽しむように、キラはそこから動かない。
しばらく、水の落ちる音しか聞こえなかった耳に、違う音が入って来た。ゆっくりと目を開ける。少しだけ視界が歪んだけれど、何度か瞬きをしたらそれは気にならなくなった。
誰かが、近付いてくる音。急ぐようなその音は、得たいの知れない不安を呼び醒ます。
「…何…?」
濡れた両手で自分の肩を抱く。
この音は嫌い。
雨に濡れた所為か、気温が下がった所為かは分からないけれど、身体が震え始めた。不安ばかりが膨らんで、視界が薄暗くなって。世界が遠ざかり始めた時に、誰かが名前を呼んだ。
「…何、してんだよ?」
良く知った音。それでも最近は出掛けている事が多くて、キラが閉じ篭っている所為もあって顔を合わせることも減っていたけれど、間違える筈のない、その人の声。
初めて聞いてから、ずっと大好きな。
何処か呆れたように響いたその声に、ゆっくりと振り返って。視界の先で、何処から持って来たのか傘を差し出すその人を視界に認めて、キラは微笑んだ。
「…ディアッカ…」
そこで、記憶は途切れる。
珍しく姿を見掛けたと思ったら、土砂降りの雨の中、庭の真中に立って、ぼんやりしている。
「…ちょっと待てよ…」
いくらなんでも風邪を引くだろうと思って、テラスの片隅にあった傘を勝手に借りて、庭先に降りて行く。
「…キラ?」
静かに声を掛けると、細い背中は大きく震えた。そうして、ゆっくりと振り返る。柔らかな笑みを浮かべたその顔は、驚く程痩せていて。こんなに、壊れた笑顔は見た事がなかった。
どのくらい、姿を見ていなかったのだろう。見ていれば気付く。これは明らかに栄養失調だった。
固まったディアッカを他所に、キラは楽しそうに笑みを浮かべたまま、糸が切れた人形のように崩れ落ちる。
「…おいッ」
それに慌てて持っていた傘を放り出して、地面の直前で受けとめる。シャツの中の身体が、あの日よりも薄くなっている事に気付く。抱き留めた身体は何処もひとまわり細くなって、所々骨が浮いていた。
「…こんなに…」
どうして気付かなかったのだろう。
自分の事に精一杯で、他の誰かの事が意識の中から抜けていた事は認めるけれど、けして目を放してはいけなかった筈のたった一人をどうしてもっと見ていなかったのだろう。
謝る事も、後悔することも今は後回しにして、とにかくキラには医療行為が必要だった。
抱き上げた身体は、幼い子供のように軽い。その事実に、泣きたくなった。
「…ごめん、キラ。」
その閉じた瞼の下にある筈の、透き通った瞳を思い出す。記憶にある意思の強い瞳と、倒れる前の虚ろな瞳が同じものだと思うと、やり切れない。
ここまで追い詰めてしまったのは、自分だから。
自分を見てもらえない事が、恐いなんて言っていられない。拒絶されようが、誰を想っていようが、キラを護って行こうと決めたのは他ならぬディアッカ自身で。
冷えた身体を抱き締めて、何度も謝罪を繰り返して。
「…傍に、いるから。」
今はなにも映していなくとも。
次に目を覚ましたとき、最初に視界に映るように。
届く事がなくとも、それは確かに大切な、誓いの言葉。
作品名:君の隣で、夜が明ける。10 作家名:綾沙かへる