OP 01
『さよなら』は別れの言葉ではなく。
次に会うまでの、遠い約束。
その日も、ただ晴れ渡る窓の外を見上げる。
ここで流れていく時間は、酷く緩やかに感じる。同じように決まり切った時間のなかで、それを早いと感じるのか遅いと感じるのかは、状況によって大きく差が出るのだ、と言う事を初めて理解したような気がした。
切り取られたような窓の向こうをぼんやりと観察して一日は終って行く。
他になにかがしたい訳でもなく、目標がある訳でもなく。彼の隣りで生きて行こうと決めた筈なのに、何処かで未だに躊躇っている。
自分がいるのは、医療施設の一室。見まわしても、とてもそうとは思えないほど、ありふれた普通の部屋のように整えられている内装は、とても不思議に思えた。
夏の訪れを感じるような、空の色が薄く高い日に、その人はそう言って笑っていた。別れの日に、医者になるよ、と言ったその人は、とてもいい笑顔で。自分の歩くべき道を自分で選び取った、自信に満ちた瞳をしていた。だから、とても言えなかった。我侭を言いたかった訳でもなく、純粋に寂しかった。けれど、何処か崇高な雰囲気すら纏っているように見えたから、引き止めてはいけない、と思った事も事実で。
「…がんばってね」
震えそうになる声を、必死で平静を装ってそう言う事しか出来なかった。目の奥が、ジワリと熱を持つ。ここで泣いてはいけない、と思ってそれを必死に押し留めた。
それが分かっていたのか、ディアッカは困ったように微笑んで、会いに来るから、と言った。
「絶対、約束な」
悲しくて寂しい筈なのに、交わした口付けは酷く柔らかくて、暖かな気持ちをくれた。
少しずつリハビリをしながら、緩やかに時間は流れていく。無為に流れていく時間のなかで、相変わらず自分に出来る事を考えている。結局答えは見つからないまま、今日もキラは窓の外を眺めて過ごしている。
「起きてていいのか?」
扉が開く音と共に聞こえた声は、苦笑混じりだった。視線を窓から引き剥がして、声の持ち主に向けると予想通りに苦笑を浮かべて親友が立っていた。
「…別に、身体に問題がある訳じゃないでしょう」
あの時に比べれば、随分マシな状態に戻りつつある。だから、特に考える事もなく言葉は唇から滑り落ちた。その言葉に納得が行かないのか、親友は不満そうに眉を寄せて緩く深い溜息を吐いた。
タイミング良くドアをノックする音が聞こえて、エプロンを着けた女性が顔を出した。療養施設とはいえ、心に問題を抱える患者が多いこの施設は、普通のホテルか何処かの学生寮のような作りになっていて、看護士や医師の他に生活全般の面倒を見てくれる家政婦が何人か在籍している。
中年に差し掛かった女性は愛想良くいらっしゃい、とアスランに向かって会釈をし、手際良くお茶の仕度を整えて行った。
「…少しは、食べられるようになったのか?」
テーブルの上に並んだ茶器と、ビスケット。それを眺めてアスランは呟くように問い掛けてきた。
困ったなあ、と内心でキラは溜息を吐き、曖昧に頷いた。半身を起こしていたベッドから両足を床に降ろすと、感覚を確かめるように立ち上がり、ソファへと近付く。
「…お茶くらいは、ね。ご期待に沿えなくて申し訳ないけど、それ、アスランの為に出してくれたんだと思うよ」
多少は回復しているとは言え、現在のキラが受け付けるのは小さなビスケット半分ぐらいで。それを苦笑混じりに、それでも素直に伝えると、親友はなぜか嬉しそうに微笑んだ。
「そうか、それじゃあ無駄にならなくて良かったな」
そう言って、持っていた小さな紙袋をキラの目の前に差し出した。
「頼まれて、預かってきたんだけど。…ディアッカから」
思わぬところから零れてきた名前に、キラの鼓動は少しだけ逸る。紙袋を凝視したまま固まったキラの手を取って、アスランはしっかりとそれを握らせながら苦笑した。
「チョコレート、だって。マメだよな、あいつは」
いつだったか、やっぱり同じように渡されたもの。心以上に身体が疲れ果てていた時に、何気なく渡されたそれは、とても嬉しかった事を覚えている。その時と同じ重みを持つ箱は、やはり可愛らしくリボンがかかっていた。
「…覚えてて、くれたんだ…」
とても自然に、頬が緩んで行く。もしかしたら、無駄になるかもしれないと分かっていても、キラが好きだと言ったものをきちんと記憶していて、こうして手元に届くように気を配ってくれた事が嬉しくて。
「…ひとつ、くらいなら食べられる、かな」
手渡されたものを見つめながら呟くと、アスランはこらえきれないと言った表情で笑った。
「それじゃあ、当分お茶菓子には困らないな」
ここは、静かだ。
悲鳴も、怒号も、銃声も聞こえない。
あの日から、どのくらいの時間が流れたのかは酷く曖昧だ。それでも、時間が流れて行く事を、時を重ねて生きて行く事を止める事は出来ない。
親友が去って、夕暮れのオレンジ色に染まった部屋の中で、ぼんやりと考える。
手のなかには、一枚の紙片。アスランが置いていったそれは、これから生きていくために一つの選択肢をくれた。
けれど。
「…そんなことで…償いになるの…?」
答えは、誰にも分からない。
主治医と共に姿を現したのは、知らない人だった。
「君に、お客さんだよ」
そう言って医師は用が済んだら退室していく。そう言われてもキラには全く見覚えのない人だから、出来れば誰かにいて欲しかった。
「…あの…?」
来客はまじまじとキラを見詰めてから、柔らかく笑みを浮かべる。人見知りをする幼い子供のように、知らず身体が後ずさって行くような気がした。
「ああ、そのままで結構ですよ。初めまして。とつぜんお邪魔してしまって申し訳ない」
君の行方がなかなか掴めなくてね、と初老の男性は軽く頭を下げた。
「君を、探していたんだ。どうしても、伝えなければならない事があって…」
優しいお父さん、といった雰囲気を醸し出す男性に、キラはゆっくりと身体の力を抜いた。その人を立たせたままだった事に気付いて、ベッドサイドにあった椅子を進める。
「…あの、何処かでお会いした事が?」
全く覚えがないその人に恐る恐る尋ねると、男性は苦笑しながら否定する。
「いや、私も君にこうして会うのは初めてだ。それでも、君のことは良く知っている…私も、ザフトにいた事があるからね」
ザフト。
その単語に、心の奥が軋んだような感覚。
「…っ」
俯いたキラに、男性は慌てたように腰を浮かせた。
「違うんだ、キラ君。君を責める為に来たんじゃないよ。逆だ。私は、お礼を言いたくて君を探していたんだよ」
その言葉に、キラは緩く首を振る。
「僕…は、そんな…責められる事はあっても、お礼を言われるような事はなにも…なにも、していません…っ」
どれだけ時間が流れても、あの記憶は、思いは、変わらない。忘れない。
「…私の息子も、パイロットだった。歳はそう…君より少し上だな」
俯いたキラを他所に、男性は静かに話し始めた。
「アラスカの作戦に参加していてね。君に助けてもらったと言っていた」