OP 02
きっかけがなんだったのか、なんて、覚えているけど教えない。
寝不足だ、と思い当たる。
そう言えばここ数日、恐ろしい量のレポートを抱えていて、椅子の上で起きる生活が続いていたような気がする。なんとなく視界がぼんやりしているのも、砂糖が大量に入ったカフェオレを飲んでも頭が働かないのも、基本的な睡眠時間が足りていないからだ。
ようやく終りの見えたディスクをノート型のマシンから取り出して、図書室だと言うのに構わず机に突っ伏した。
「…ねみー…」
眠いと言う単語以外の言葉が出てこない。ほんの数分前まで頭の中を占めていた小難しい専門用語は綺麗に記憶の彼方に消え去って、提出用のバックアップファイルを作ることすら面倒臭い。
レポートを出してしまえば、休暇に入る。
他の学生たちと同じようにそれを支えに今まで気力で何とかして来た。けれどそれももう尽きたような気がする。
窓の外は冬の色に染まり、流れた時間を確認させる。灰色の空が投影された世界。
四季が全くなくならないように、それでも生活に支障がない程度に、と人口的に作られた小さな世界。
夏の始まりに分かれたきり、一度も顔を見ていない。時折メールのやりとりはするけれど、電話はしない。苦手だから、と言ってキラは苦笑していた。それにきっと、声を聴いたら会いたくなる。
睡眠不足と記憶力の限界に挑戦しているのは、年が明けたらすぐに研修に入るからだ。在学したまま研修生として大学病院に入り、卒業して更に一年。先が長い、と思ったのは事実だけれど、いつまでも篭ったまま机に齧りついているよりも、少しでも早く現場に行きたかった。コーディネイターとして考えれば、遅いくらいなのだから。
医者が必要とされる場所は少ない。
少しばかり丈夫に出来ているコーディネイターの大半は、それほど深刻な病気にもならず、必要とされる場所は大抵が外科。出生率が下がっているから、産婦人科医と小児科医は増えているけれど、それを進んで志す者達は何時の間にか遺伝子を研究する研究員になっている。
戦争をしていた頃、たくさんの医師達が戦場に行った。その頃自分はパイロットで、あまり縁がなかった。存在を知ってはいたけれど、結局犠牲になった人びとのなかに、非戦闘員である技術者や医師達がたくさんいたのだと言う事をここに戻って来て初めて知った。どんなに悔やんでも、彼らが帰って来る事はない。悔やむよりも、その場所に立った人達に恥じないよう、そこを目指すだけだ。
同じ過ちを繰り返さない為に。なによりも大切なものを、二度と無くさない為に。
誰よりも大切な人を、護るために。
会いたい、とか。
触れていたい、とか。
我侭だと分かり切っていても。
知らず、零れる溜息。
物理的な距離も、心の距離も。単純な話で、自分には力がないだけ。
それを掴む為の、離さずに護って行くだけの力が。
あとどのくらい待てばいい?
あとどのくらい、待っていてくれる?
紙の上では大人と呼ばれても。
自分はまだ、こんなにも幼い。
建物を出ると、冷たい風が頬を撫でて行く。身震いをひとつして、半年の間に通い慣れてしまった部屋までの道のりを辿り始める。途中で擦れ違ったり、追い越されたりする同じゼミの顔見知りと軽く挨拶を交わしながら校門を出ると、とても意外な顔に出会った。
「…めっずらし」
思わず苦笑しながら呟くと、その相手はふわりと笑みを浮かべた。
「こちらでお待ちしていればいいと、アスランから伺いましたの」
緩やかに波打つ桃色の髪を揺らす彼女は、とても有名だ。そもそもこんな場所に単独で来る事など有り得ない筈だと言うのに、目の前に立つのはどう見ても本人だった。さりげなく後ろに控える車と、もはや懐かしいと言える緑色の制服。
「それで?評議会議長様が、オレなんかになんのご用ですか?」
少しおどけたように問い掛けると、ラクスは小さく笑う。
「相変わらず、ですのね」
お話があって参りましたのよ、と彼女は続けると、後ろに停まった車のほうへと視線を動かした。
「…こちらでは、少々問題がありますの。内緒話ですから」
ほんの少し、困った様に眉を寄せたラクスは、どうぞと言って誘う。
ラクス・クラインは現時点でのプラント最高責任者だった。その彼女が、わざわざ自分に会いに来るとしたら、恐らく理由はたったひとつ。
「…お付き合いしましょう、お姫様」
軽く笑ってそう言うと、ラクスは安心したように頷いた。
地球連合軍第八艦隊アークエンジェル所属キラ・ヤマト少尉は戦時中、オーブ近海の戦闘にて搭乗機の信号ロスト、及び生死不明、と書類には記載されている。それは表向きの情報で、現在キラはある場所で療養していて、それを知るのはごく僅かな人間のみ。
「…生存情報が、ネット上で密かに出回っています」
運転席と自分と彼女が座る後部座席の間には、小さな窓のついた仕切りがある。会話が伝わる事はないにも関わらず、ラクスは敢えて主語をつけずに切り出した。
「出所は?」
それが誰の事を指すのかディアッカには良く解っている。だから簡潔に訊き返すと、ラクスは首を横に振った。
「現在、情報部で調査中です。ですが、万一を考えて、場所を移すか、護衛をつけるかのどちらかの方向で…ザフトが動きます」
目を伏せて、ラクスは困りましたわね、と呟いた。
「…あまり、大事にするのはキラの為には宜しくないのですけれど」
存在自体が、世界を揺るがすほどの情報を持っている。その真実を彼女はどれくらい知っているのか分からないけれど、少なくともディアッカは唯一に近い、真実を知る者だった。そしてそれは、自身にも危険が迫ってくるかも知れない事を意味している。
「…で、結局今の所動きようがないんだろ?」
オレのとこに来るくらいだから、と苦笑混じりに続けると、ラクスは困ったように微笑んだ。
「あなたには知らせた方が良いと、アスランから言われましたから」
キラは現在、あるコロニーで療養している。プラント自体が幾つものコロニーで群れを作り、ラグランジュポイントと呼ばれる重力が安定した宙域に浮かんでいるから、遠い訳でもなく、近い訳でもない。すぐに行こうと思えば叶うし、遠いと思えば遠い。
そのコロニーは、血のバレンタインで失われたユニウスセブンに変わる、新たな農業プラントだった。戦争中に着工し、終戦後に完成した新造コロニーで、農業地帯の他にはそれに従事する市民と、余裕のある人々が建てた別荘しかない。貨物便以外に往復するシャトルが極端に少なく、おもに保養施設と言った方が近い。
他のコロニーに比べて環境が良く、生活する住人の数が少ない為に選ばれた場所だった。キラの他にも心に病を抱える人々が身を寄せる療養施設は、戦後の保障の一環で建てられたもの。
さりげなさを装ってはいても、実際にはとても厳しく出入りが規制されているから、部外者が簡単には入り込めない場所に、キラはいる。
「…あそこにいる限りは、恐らく簡単には手出し出来ないでしょう。ただ、キラにとって尤も影響を及ぼし易い人物を盾に取られた、としたら…」