OP 03
その空に、届きそうだから。
何処までも、追いかける。
両手を伸ばして、抱き留めてくれる人のところへ。
夕焼けはキラにとって特別な想いがある。
暮れて行く空の色は、とても心地良い早さの鼓動を伴って。
さわり、と髪を揺らす風は冷たい。けれど、開け放たれた窓辺から動く事もなく、ただ造られた筈のそれに視線を投げ続ける。限りある筈の人工の世界。
その小さな世界が、今のキラにとっては全てだ。
その日、施設全体が忙しないような気がした。
自分の部屋に閉じ篭りがちな入所者のなかで、キラは良く出歩く方だ。ほとんど日課になっている温室までの道のりをゆっくりと辿りながら、立ち働く人々が普段よりも慌ただしいように見えて首を傾げる。
「…なにか、あったんですか?」
問い掛けると、いつも付き添ってくれる中年の看護士は、曖昧に笑みを浮かべた。
「ああ…そうか、今日なんだわ。新しい入所者が来るのよ、確か」
元より、数えるほどしかいない患者達。必然的に、出入りは大事になる。
「…そう、ですか…」
施設の性質上、それは素直に喜べない。溜息と共にキラは呟き、それきり口を閉ざした。
中はとても近代的なのに、建物を出て振り返ると、少しくたびれた外装が目に入る。わざとそうしているのだと、来たばかりの頃に教えてもらった。赤茶けた煉瓦張りの壁。自動ではなく、重たそうな外観の木の扉。知る筈がないのに、誰もが懐かしさを覚えるようにと、計算された建物。
正面の扉を出て、建物に沿って歩く。緩やかな気温の中、たくさんの植物が植えられた庭の奥に、ガラス張りの温室がある。温室と言うよりも、サンルームとでも言った方が良い程の広さをもつそこは、ここに来た時からキラのお気に入りの場所だった。晴れの日には、ほとんど一日中そこで過ごす。
温室がある奥庭は、施設関係者と患者以外は立ち入り禁止で、隣りに見える教会との境には野薔薇と木苺で垣根が作ってある。あからさまに壁など作ってしまうと患者が怯えるから、と言う理由で、この手の庭木にしては背が高くしつらえられた垣根。有刺鉄線の変わりに天然の刺が時折脱走する患者を阻み、外部からの不法侵入を防いでいる。春先から初夏に掛けて可憐な花をつける緑色の壁は、今は濃く茂るのみで、少し寂しい。
温室の中にはガーデンテーブルが揃っていて、何人かの患者達が思い思いに寛いでいる。元より他人を拒絶する患者は部屋から出る事もないから、辺り障りのない言葉を交わす静かで優しい時間は、とても心地が良かった。
そこだけアクリルで作られた軽い扉を開けると、色とりどりの花を付けた鉢植えが並ぶ棚の向こう、テーブルの一つに先客が居た。恐らく、キラよりもずっと長い時間をそこで過ごしているのではないかと思われるその女性は、まだ若い。
「…こんにちは」
静かに声を掛けると微かに振り返って、微笑んだ。けれどその瞳は虚ろで、なにも見てはいない。大切そうに抱えた布製の人形を抱き締めて、ただ虚ろに微笑むばかり。初めてこの女性を見かけた日から、変わらない光景。
小さく、鋭く、胸の奥が痛む。
この人は、戦争の所為でこんな風になってしまった。それを、キラは知っている。
自分の所為ではなくとも、戦場に立ち、誰かの命を奪っていた自分にとっては、目の前に突き付けられたりアルで厳しい現実。
戦争で夫を失い、そのショックで流産してしまった女性は、いつも布製の人形を抱えて、哀しくて優しい笑みを浮かべながらガラスの向こう側の世界を見詰め続ける。ガラス窓の向こう、茨の垣根を隔てて聳える教会。そこには、併設された孤児院がある。戦争で両親を失った子供達が暮らす施設。
プラントにありながら、そこにはコーディネイターもナチュラルも、また、そのどちらでもない子供達も訳隔てなく生活している。
子供達は、これからの世界ですわ。
そう言って微笑んだラクスが、この施設を作った。そこで暮らす子供達の明るい表情が、戦争で心を壊してしまった女性の平穏を保っている。
居た堪れなくなって、キラは視線を逸らした。あなたの所為じゃありませんよ、と何度目か分からない慰めの言葉を掛けながら付き添ってきた婦人はキラの肩を軽く叩いた。促されて、キラはそのテーブルを後にする。
その女性がいつも同じ場所にいるのと同じく、キラにもお気に入りの席がある。鉢植えの棚と、ガラス窓の間、一番端の席がそう。入ってきた誰かに見つからないよう、棚の影に隠れるようにして腰を下ろし、持っていた本をテーブルに置いて開いた。付き添って来た婦人が淹れてくれたハーブティーが立てる香りに目を細める。
「…有り難うございます…」
小さく微笑むと、婦人は笑みを返して温室を出て行った。
屋根に採り付けられた窓から風が入ってくる事以外は、なにも動かず、なにも聞こえない静かな世界。時折気まぐれな風が、隣りの敷地ではしゃぐ子供達の歓声を運んでくる。
静かで、多分、とても平穏な幸せに満ちた世界で、キラは今日もゆっくりと流れて行く時間を過ごしていた。
そう遠くない記憶の中で、最初に見たのは少し困ったように笑みを浮かべる姿で。
その肩の向こうに、水平線に最後の光を残して行く太陽が、とても鮮明に残っている。
冬の日、と言うのがある。
このコロニーだけに存在する、独特の気象設定。主用目的が食料生産と保養地だからか、一度露地栽培の作物の収穫が終ると、一週間ほど「冬」になる。
それはとても不思議な感覚だった。ある日唐突に木々の葉が赤や黄色に色付いて、そのうち全て落ちてしまう。灰色の空に、寒々とした枝が震える世界は、経った数日で緑が新たに息吹くのだ。
ここに来たばかりの頃は、心に余裕がなくて暫く気付かなかったけれど、半年の間に慣れてしまった。そうして、今では少し、「冬の日」が楽しみになっている。
なぜだか決まって、気温が低くなるこの時期に誰かしか訪ねてくる。親友だったり、姉だったり、いつか来てくれた男性だったり。この時期に限ってはほとんど皆勤賞の親友が、久し振りにカガリと連れ立って部屋を訪れた。
「…いらっしゃい」
ふわりと笑みを浮かべると、コートを脱ぎながらカガリは元気じゃないか、と言って笑った。
「いっつも寒いな、このコロニー。大丈夫なのか?」
たまたまそう言う時期に来ているのだと説明しても、納得が行かない。地球で、赤道に近い場所で暮らす彼女にとっては、どうにも居心地が悪いらしい。相変わらずストレートなカガリに、アスランと顔を見合わせて笑った。
少しお茶を飲んだ。
彼らといる時は、比較的食欲があるように感じられる。相変わらず固形物は受けつけないけれど、ゼリーやシャーベットと言った流動食は食べられるようになった。それが分かっているのか、彼らが持ち込むものも、お茶と一緒に出されるものも、似通ったものばかり。
夕暮れの、面会時間ぎりぎりまで話をして。重い木の扉の外で、とても名残惜しそうに立ち話をする。
「…あいつ、来ないのか?」
会話が途切れた一瞬、親友は少し声のトーンを落としてそう言った。それが誰を指すのか、良く分かっている。そうして、ゆっくりとキラは首を横に振る。