OP 04
そこに、世界はあった。
今、ここに立っている。
けれどそれは、けして踏み出せない線を挟んで。
この線の内側は優しい。
この線の向こう側は、きっと悲しくて辛い。
どちらを選んだら良い?
迷っているから、今はまだ。
その少年を見つけたのは、まったくの偶然だった。
温室の外、茨の垣根の下。小さな頭が、いきなり生えてきた。
「…え…?」
あまりに唐突な出来事に、持っていた本が軽い音を立ててテーブルに落ちる。そっと辺りをうかがうように視線を走らせた少年は、するりと垣根を潜り抜けて、正面の玄関とは反対の方向に駆けていく。それを視線だけで追っていたキラは、引かれるように立ち上がった。
どうして追いかけよう、と思ったのかは解らない。
鉢植えの棚の陰からそっと抜け出して、今日は一人しかいない女性の様子を覗って。
「…大丈夫、かな…」
いつもと変わらずに微笑をたたえた女性は、まるでキラを促すように微かに首を傾げた。言葉を発することがなくとも、彼女がまるで行ってらっしゃい、と言ってくれたような気がした。
温室の外、柔らかな日差しの中を建物の裏手に向かって歩く。少年の消えた先に、何があるのかキラは知らない。普段足を運ぶのは温室までで、その向こう側には行ったことがないからだ。
人気のない裏庭を、ゆっくりと歩く。建物を回りこむようにして壁沿いを進んでいくと、突然目の前に林が出現した。滅多に人が近寄ることもないのか、刈り込まれた芝生は少しぼうぼうで植えられた庭木の形も崩れている。
コロニーという特殊な環境の所為か、裏庭だというのに日がさんさんと降り注ぎ、むしろ前庭や温室のある場所よりも静かで心地良いかもしれない、とキラは思った。下草を踏みしめる音とともに、林の中からモーターの回る低い音がする。
程よく木陰を作る木々の間に足を踏み入れると、まるで隠れるように灰色の建物があった。倉庫のようなその外壁の一部に、やはり木の扉が備わっている。
すべてを見て回ったわけではないから、半年という時間を過ごしている場所でも知らない建物はいくつもある。誰かと顔を合わせる事態をなるべく避けたいと思うから、与えられた部屋の外、広大な敷地にいくつも点在する他の建物に近付いたことはなかった。
ここに来て最初に教えてもらった敷地内の見取り図を思い出しながらそこに近づくと、垣根をすり抜けた少年が熱心に何かの作業をしていた。キラに背中を向けて、広げられた簀状のものに何かを並べている。
「…こんにちは」
極力静かにそう言ったつもりだけれど、少年は小さく悲鳴を上げて振り返った。そうして、知らない人を不躾に観察する。疑いの色が濃く顕れた少年の瞳。逆にキラも観察させてもらった。
柔らかな亜麻色の髪。少年らしく短く整えられ、活発そうな琥珀色の瞳には少し高いところから見下ろすキラ自身が写っている。年は12、3歳くらいだろうか。
子供の対処法ってなんだけっけ。
ぼんやりと思い出しながら、それでも自然に口元が綻んだ。
「こんにちは。」
もう一度、今度は微笑を浮かべてそういうと、少年は微かに頭を下げた。
「…こんにちは」
礼儀正しく返事をする少年の手元には、ボウルに入った黄色い物体と、笊に上げられて並んだ同じもの。
「何、してるの?」
それらを眺めながらそう尋ねると、少年はドライフルーツを作るんだ、と言った。
「これは桃。黄色いやつ。半分向こうは三日前に干した杏」
そう答えながら少年は止まった作業を再開する。
この施設に、少年はいない。少なくとも、キラの暮らしている療養施設には。そうだとしたら、職員の関係者だろうか。
「…君、どこから来たの?」
とても自然な疑問を投げかけると、兄ちゃんこそどっからきたんだよ、と振り向きもせずに言った。
「ここ、病院だよ。見たとこ、元気そうだし…誰かのお見舞い?」
少年は手に残った最後のひとつを並べると、思ったよりも頭のいい質問が来た。
「…僕?…ここで生活してる、よ」
苦笑を零しながらキラは答える。確かに、見た目は普通の人と変わらない。少年が疑問に思うのも良くわかる。
ふうん、と振り返った少年はボウルに残った水を払った。
「俺、隣の孤児院にいる。ここには時々手伝いに来て、出来たの少し分けてもらってるんだ」
そもそも、ここでこんなものを製造しているということ自体、キラは知らなかった。確かにこの施設は普通の病院と、植物学者たちの暮らす研究棟、実験用に作られたいくつもの畑や果樹園が並んでいる。それでも、スーパーの店先でパックに詰め込まれた状態でしかお目にかかったことのないドライフルーツを「作って」いるところがあるとは思わなかった。
「…すごいね」
苦笑交じりにそう言うと、少年は少し得意そうに笑った。
その日、日が暮れるまでキラは少年とともにカットされたフルーツを並べていた。
「手伝ってくれたから、おすそ分け」
そう言って渡された白桃の干したもの。何かを期待されていることがわかったから、ほんの少し齧ってみた。途端、優しくて甘い香りが広がる。
「…凄いね、美味しい」
純粋に感動を覚えながらキラが言うと、少年はとても嬉しそうに頷いた。
「ばあちゃんは名人だから」
建物の外で、薄闇の中いつまでも手を振ってくれた老婦人は、リタイアするまでは科学者だったのだと言った。加工食品の研究開発をしていて、退職したらどこか静かなところで余生を楽しもうと思っていたのだという。
偶然、新しい農業プラントが出来るという話を聞いて、移り住んだ。経験を買われて、この施設内の食堂で栄養管理士をしていると言った。そうして、空いた時間に老婦人が作り始めたのがドライフルーツ。
「桃も、無花果も、凄い良い匂いがするんだ。この垣根の向こう側にやっぱり庭があって、いつもそこでなんだろうってみんなで言ってた」
この少年が、孤児院での最年長だと言った。さすがに正面からは入れなかったために、何とか垣根を越える道を探したのだという。
「そしたら、ここ、子供なら通れるくらいの穴があったんだ」
さすがに暗くなってきたため、少年とともにキラも部屋へ戻る道を歩きながら話してくれた。
そこはちょうど、温室のガラス窓の端に当たる。おそらく、中からは死角になっているのだろう、キラがいつも座っているテーブルのちょうど対角線上。
「…そっか」
子供って時々凄いなあ、とキラは微笑った。
垣根の穴を抜けて隣の敷地へと戻っていく少年を見送って、キラも温室のほうへと歩いていく。オレンジ色の明かりが灯った室内では、キラの世話をしてくれる老婦人が顔を見るなり泣き出してしまって少し困った。
そういえば、半日以上も姿を晦ましていたことになる。心配をかけてごめんなさい、と素直に謝って、頂き物のドライピーチをすべて、老婦人にプレゼントしてしまった。
それが、その少年との出会い。
自分が、少しだけその線を踏み越える勇気をもらった、大切な。
計画は順調、とモニタに打ち込んでメールを送信して、ファイルを閉じる。幾重にも重なったセキュリティがきちんと仕事をしていることを確認して、マシンの電源を落とす。