OP 06
砂のように、零れて行くもの。
遠い空の雲を掴むように、伸ばされた指先。
止められなかったものの数。
掴めなかったものの数。
それはそのまま、誰かの命。
取り戻せないのなら、失わずに護ることしか出来ない。
「…面会?」
ようやくベッドから抜け出す事が出来た朝、来客があると老婦人は告げた。 「宜しければご案内して参りますよ」
いつもと変わらず柔らかく微笑む婦人は、キラが散らかしたままだったテーブルの上を手早く片付けながらそう続ける。 「誰、ですか?」
親友と姉が先日訪ねて来たばかりで、一番会いたい人が来る事はないと知っているから全く見当もつかない。それほど頻繁に誰かが訪れる事もなく、来客があると言う事自体、とても珍しいことなのだ、本来ならば。このコロニーが極端に人の出入りが少ない事も、キラは承知している。
問い掛けに婦人は笑みだけを返して、毎朝用意される幾つかの錠剤と、薄く調整された豆乳の入ったカップを並べる。キラはそれを見て少しだけ嫌な顔をした。
「…あなたがこれを綺麗にする頃、お客様をお連れしますからね」
そんな視線には慣れ切っているのか、老婦人はそれだけ告げてさっさと部屋を出て行く。一人残されたキラは、とにかく誰かが来るらしいからそれまでに目の前で並んでいるこれらをなんとかしなければならない、と半ば諦めながら錠剤を摘んで、添えられたミネラルウォーターで一息に飲み込んだ。緩く嘆息しながらも、陶器のカップに入ったそれには手をつけない。単純に、苦手だから。暫く睨み合ったあと、おもむろにカップを持ってパソコンの乗ったデスクに近付き、薄っぺらいモニタの後ろにそっと押しやった。
あとで何とかしよう。
溜息と共に、とても小さく呟いて。
一瞬、誰が来たのか分からなかった。
薄く色付いたサングラスを外して、彼女は静かに微笑む。
「…お元気ですか、キラ?」
かつて、歌姫と称された少女。迷いと絶望の中で、力と想いをくれた少女。
緩やかに波打っていた桃色の髪は背中の中程までに短くなり、なぜか赤茶色になっていた。それを後ろで緩く編んで、以前は見たこともないTシャツに、デニムのタイトスカート。良く考えれば歳相応の若い少女がごく普通に纏うファッションも、彼女とすぐには結びつかない。
「…びっくりした…」
たっぷり沈黙してから、それだけ言葉にするのが精一杯。
彼女はそんなキラにいつもの柔らかな笑みを向けて、事情がありますの、と言った。
「ここに来るのは、少しだけ大変ですのよ。…折角、今まであのイメージで通して来たのですから、こうしておけばバレないでしょう?」
髪なんてすぐに伸びますし、と続けたラクスは、少し楽しそうに微笑む。そう言う問題じゃあ、と内心キラは苦笑を零す。そう言えばとんでもないお姫様なのだ。
「そっか」
少しだけ、どころか旅客シャトルの欠航が相次いでいる現状を考えれば、彼女がここにいる事自体相当大変だ。このコロニーの人の出入りを監視している警備員は、恐らくなぜこんなに厳重な警備が必要なのか知らない筈だ。変装と言う手段を取ってまでそれを掻い潜って来たのだから、彼女の後ろ、扉のすぐ傍に立つ見知った青年の苦労は計り知れない。当然緑色の制服ではなく、ラクスに合わせるようにハイネックのTシャツと麻のジャケット、ジーンズと言う出で立ちの青年にちらりと視線を投げると、彼は曖昧な笑みを浮かべた。キラは軽く頭を下げた。
「…でも、久し振りだね。て、言うか、どうしたの急に?」
当然と言えば当然の質問に、彼女はあら、と少し心外だとでも言うように唇を尖らせる。
「私が、ここで起こっている事を知らないとお思いですか?」
それに、お会いしたかったんですわ、と彼女は続ける。
「あなたにも…子供達にも」
ふふ、と小さく笑ったラクスにつられるように、キラも笑みを零す。
「あれ、でもラクス、仕事はどうしたの?休暇でも取った?」
容易に休暇など取れる筈のない現評議会議長は、この上もなく極上の笑みを浮かべたまま事もなげに答える。
「私、失踪して参りましたの」
その答えに、今度こそキラは呆れ果ててなにも言えなかった。
緩やかに香るのは、この夏地球で採れたセカンドフラッシュ。そう広くはない室内を満遍なく回り、清々しささえ感じる夏の名残を広げる。
「…またずいぶんと急なご来訪だね、お姫様は」
そう言ってカップを優雅に口元に運ぶ青年の手は、芸術家のように繊細だった。けれど、その繊細な指先が操るものは。テーブルの上に無造作に投げ出された、黒く光る小さな凶器と、その隣にある四角いプラスチックの箱。
カップをソーサーに戻して、箱の留め金を外すと、中には実にシンプルなボタンが二つ。見かけはシンプルでも、その小さな箱の中には科学の粋を集めた精密なコンピュータが、役目を果たすときを待っている。
「さて、お嬢さん?」
箱のふたを閉めて緩やかに笑みを浮かべると、テーブルの反対側に座っていた少女は不機嫌そうに眉を寄せた。
「やめてくれないその、お嬢さんって言うの。」
長い黒髪をさらりと揺らして、彼女の癖なのか毛先を指に巻きつけては離している。それでも少女の黒髪は、癖がつくこともなくさらりと流れ落ちる。
「おや、ご機嫌斜めかな。せっかくこれから楽しいイベントが起きるって言うのに」
楽しそうにそうつぶやいて笑う青年に、少女はアンタがやるんでしょ、と冷たく言い放った。
「…まあ、いいわ。そろそろ私も帰りたいし」
ここは嫌い、と彼女は呟いて、少し高い椅子から降りた。
「だって、あの研究所を思い出すんだもの」
棄てられた箱庭、コロニーメンデルを。
冬の日が、来る。
朝目を覚ますと、窓の外にある庭木のいくつかが赤や黄色に色付いていた。裏庭の林が紅葉するところを見ようと、少年と約束していたことを思い出す。
ラクスは彼女名義の隣の施設に滞在している。もとより、その教会を建て、孤児院を作ったのは彼女であると、このコロニーに住む人間で知らないものはなく。
温室の向こう側、垣根越しに初めて管理人と顔を合わせた。その老人の白髪や、そこかしこに刻まれた皺が、彼の生きてきた年月を物語る。柔和な笑みを絶やすことのないその老人は、キラを見てどこか納得したように頷く。
「ああ、マナヤの」
言葉少なに語る老人は、どこか優しい気分になる、と思った。だから、あの少年と居ると気持ちが柔らかくなるのだろうか。
幾分低くなった気温に、空調が動いていた。
ベッドの上に身を起こすと、思ったよりも眩暈も吐き気もしなかった。気温が下がると、途端に体調が崩れるから気をつけろよ、と言ってくれたのが、ずいぶん前の出来事のような気がする。
クローゼットから引っ張り出したコットンのシャツに、薄手のセーターを重ねる。普段は裸足にスリッパの足元も、きちんと靴下を履いて外に出る準備をした。
「あら、おはようございます」
今日から冬の日ですよ、と続けて朝食を運んできたのは老婦人。あまり代わり映えのしないそのメニューに、内心溜め息を吐きながらもおはようございます、と返して。