OP 06
「今日はお隣にいらっしゃるんでしょう、きちんと食べていかないと」
老婦人は底知れぬ迫力をもってそう言い放つ。結局逆らえずに、おとなしくいただきます、と苦笑交じりに呟いた。
そんな、繰り返される日常。何一つ変わらないと思っていた優しい時間。
けれど、永遠に変わらないことなんて、ないのだと。
天気は晴れ。その高く青い空に対して、肌寒い日だった。
きっと、一生忘れない。
思い出すたび悲しくて、泣き出してしまっても。
きっと。
最初に感じたのは、大きな衝撃だった。空気を伝わって、びりびりと震えるほどの。
一瞬閉じた瞳を見開くと、視界に映ったのは黒く立ち上る煙。
「…まさ、か…っ」
一瞬の間をおいて、巻き上げられた細かなコンクリートの欠片が降り注ぐ中、キラは走り出した。
ラクスと。
子供たちと。
広い敷地を持つ施設と、隣の教会のゲートまではずいぶんな距離があった。冷たさを感じる風の中を、柵越しに歩いている途中に異変は起きた。
ちらりと視線を投げた施設内の建物からは、大きな音に何人もの職員や患者たちが顔を出し始める。現場に走っていく警備員たちの姿。流れていく景色の中で、不意に視界を占領したもの。病棟の最上階、その並んだ窓のひとつに。
いつか見せた壊れた笑みを浮かべた少女が、いた。
その視線は、しっかりとキラを捕らえて。ゆっくりと動いた唇に、背筋が凍る。
いのちとひきかえに、あれをちょうだい。
そうして、その外見とは裏腹に艶やかとさえ取れる笑みを刷き、少女は窓の向こうに消えた。
怒りなのか、混乱からなのか、頭がくらくらする。眩暈に止まりかけた足は、すぐ近くから聞こえてきた子供の泣き声で再び地面を蹴った。ほとんど動かしていない、と言っても過言ではない体は、無理な運動に悲鳴を上げる。喉の奥が乾いて、荒い呼吸の音だけが耳についた。
すでに野次馬で埋まったゲートの間をすり抜けると、昨日見た後姿が目に映る。
「…ダコスタさんっ」
掠れた声はそれでもざわつく現場に居た青年の耳に届いたのか、それまで何事か話していた無線を切ってキラのほうへと走ってくる。
無事だったんだね、という赤毛の青年は、所々煤で汚れていた。
「ラクスと、子供たちは?」
乱れた呼吸を何とか落ち着かせようとしても、上手くいかない。限界まで跳ね上がった鼓動は、言葉すら途切れさせる。
こっちへ、といって人ごみを外れ、青年は敷地の片隅を指差した。それを追いかけると、固まった子供たちの姿。ほんの少し安堵して溜め息を零すと、彼はキラの耳元で小さくラクス様は中です、と続ける。
「子供の数、足りないんですよ。すぐに戻るとか何とか…あーもう、ほんとにあの方は!」
ぐしゃぐしゃと頭を掻き回しながら、ダコスタは零した。
「僕が、行きますから。ダコスタさん、ここお願いします」
そう、狙いはキラなのだと。解っていたはずなのに、こんな方法で来るなんて。
ともかく、中に居るであろう子供と彼女をここから引き離さないことには話にもならない。何も出来なかった自分に苛つきながらもキラは走り出そうとして、止められた。キラ君、と言った青年は、軽く周りを見渡してからそっとそれを差し出した。思わず、目を丸くする。
「…万が一を考えて、これを」
このコロニーに、武器の類は持ち込むことが出来ないにもかかわらず、彼が差し出したのは小型の拳銃。それはつまり、この爆発が事故ではなく意図的なものだと彼もまた気付いている、ということになる。彼だけではなく、ラクスも。
こんなことが起きると知っていて、彼女はここに来たのだろうか。それとも、彼女が来たから動いたのだろうか。
どちらにしろ、キラが怯えて、逃げていた時間は終わりを告げる。
気をつけて、と言った青年に、軽く微笑んで。
黒煙が立ち上る、瓦礫と化した教会に向かって走り始めた。
皹割れた壁は、時間を置いて崩れ落ちてくる。扉が吹き飛んだ教会の中、粉々に砕け散ったステンドグラスの欠片を踏み締めて、ゆっくりとキラは歩く。ひっくり返ったベンチの下、崩れ落ちた天井の下、礼拝中だったのか人の形をしていたものが所々その名残を覗かせる。赤と言うよりも、黒く見える液体と共に。
「…酷い…」
言葉を失った。
救急隊員が息のある人々を忙しく運び出す中、反対に向ってキラは歩く。さながら戦場のような状況に、誰もキラが教会を横切ってその奥の施設へと消えていくのを咎めない。
鼻をつく匂いが充満していた。口許を手のひらで覆って、降り注ぐ細かな破片を避けながら、恐らく爆発の中心であろう場所に近付いていく。みしみしと嫌な音を立てる建物が、そう長くはこの形を保っていられない事はすぐに予想がついた。
「…ラクス?」
何処に、と施設内を見回す。教会に続く廊下を抜けた先は、食堂のようだった。椅子もテーブルも瓦礫に埋まっている。辛うじて形を保っているのは外壁だけで、見上げると青い空が覗いていた。傾いたドアを半開きにし、更に奥へと足を踏み出す。人気がない、と漠然と感じる。表の教会に多数の死傷者が出た事を考えると、この場所が無人だと言うのは少し違和感が残る。
崩れ落ちそうな壁の先に目を凝らすと、遠くで微かな悲鳴が聞こえた。何かが崩れる音と共に。
聞き覚えのある、その声。
「…マナヤ…ッ」
瓦礫と言う障害物が邪魔をする廊下を走り、幾つもの扉を通り過ぎて突き当たった先には、奇跡的、と言っても良いほど無傷の扉があった。両開きのその扉は片方が開いていて、その向こうから誰かの声がする。
狂ったように、笑う声が。
扉に背中をつけて、緩く深呼吸をする。ジーンズに挟んであった銃を確かめて、震える手で握り締める。
一度閉じた瞳をゆっくりと開けると、扉の向こうの光景を目の当たりにする。
「…ラクスッ」
煤と血に汚れた少女と、その後ろに怯えたように座り込んだ幼い少年。睨みつけたその先に、長い黒髪を揺らして笑い続ける少女が立っていた。見覚えのある少女は、キラと同じ施設に入院していた筈の。
「…君は…」
呆然と呟くと、それまでの嘲笑をぴたりと止めた少女がゆっくりとこちらに視線を動かした。にい、と唇は笑みの形を作る。
「…漸くお出ましなのね」
鈴が転がるような声で、少女は口を開いた。その事実に、目を見開く。
「君が、犯人なの…?」
そう、それは漠然と感じていたこと。あの日、壊れたように虚ろな笑みを浮かべた少女は、その時点で何処か危険だと解っていたはずなのに。
キラの言葉に、少女は心外だとでも言うように眉を上げた。
「まあ失礼ね。私は、あなたを殺しに来ただけよ」
可愛くて、憎らしい弟をね。
その言葉は、衝撃と共に。
肩に何かが当たった、と理解するよりも、告げられた言葉の衝撃の方が大きい。いつの間に取り出したのか、少女の手には銀色の拳銃が握られていて、薄く硝煙が立ち登っている。独特のその香りと、自分の流した鮮血の鉄の匂いが混じりあう。
じわり、と生まれた痛みに、顔を顰めた。
「キラッ」
悲鳴に近い声でラクスが叫ぶ。駆け寄ろうとする彼女に、血にまみれた手のひらで動くな、と伝えて。